Not Yet ~あの映画の公開はいつですか?~

主に国内未公開&未発売の映画の話など

(国内盤購入可能)「Mysterious Skin / ミステリアス・スキン」痛みを求めて

国内では(たぶん)映画祭での上映のみで、伝説のようになっていたこの映画、一昨年に原作の『謎めいた肌』が新訳で再販され、昨年末ついにBlu-Rayが発売されました。この手のテーマの円盤が国内で何度も再発売されることはなさそう&ストリーミングに乗らなそうですから、今が貴重な視聴機会かと思い記事を上げます。

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是非映画祭で観たいと思っていたのですが、2005年の初上陸時には叶わず。円盤も買い逃し。というかこの国内盤、出ていたのでしょうか?

私はUK PAL2を2016年末に注文したのですが、届いてから3ヶ月ほど温めてから観ました。取り寄せてはみたものの、旧訳と原書をざっと読んだことがあったので、気力と体力がある時に勢いで観ようと。

その間、とある素敵な青年がインタビューで「一番好きな映画」を聞かれてこの作品を即答していて驚いたり。

 

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ストーリーは転記しません

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とても辛い映画でした。主人公の心身の痛みが、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット(以降JGL)の名演により、観ているこちらに防ぎようなく流れ込んできます。それは常にヒリヒリと、時には目を背け、こちらが泣きたくなるほどに。

 

毎日もう環境映像のようにつけっ放しで観たい映画がある一方、覚悟が無いと観られない映画もあり、それを敢えて観る行為は自分を少し逸脱させます。フィクションを観る時、人に因っては怪奇やSFといった予めの逸脱、現実からの乖離にそれを求めているのかもしれません。私はこれらの設定にはとても慣れ親しんでいるので、自分と作品の距離が巧くいく分、観るにあたり覚悟は殆ど要りません。怪奇とSF上であれば猟奇やグロも平気です。

でも、社会的弱者やそれに伴う社会的な不条理といった現実的な物語に関しては何故だか少々弱いのです。観た後に気持ちがとても沈みます。視聴中もフィクションであることは当然承知していますし、実際は誰も傷ついていないはずなのですが、とても心が痛むのです。劇中で明確に問題解決が為されなければ、それはより顕著になります。

#昨日「BPM (Beats Per Minute/120BPM)」を観ました。実話ベースであり、最新の治療法でHIVは死の病ではないとも言われる今でも、製薬会社の特許の独占や価格の吊り上げを狙った供給不足もあり、劇中で糾弾されていた問題は解決されてはいません。また、病そのものも根絶されていないので、心がモヤモヤとしたままです。

 

 

LGBT系の映画をわざわざ観て、いろいろ思うことを進んでしているのは、現実としてそこにあるものなのに、どうにも自分との距離があるからに他なりません。私は男ではないし今後もならないだろうし、たぶんゲイではない。男として男と愛し合うことは叶いません。

ただ、「LGBTQ」とした時の「Q」、クイア要素は自分自身かなり自覚的に持っているし、いつの間にかある社会属性に於いては十分にマイノリティになりました。だからと言って、誰かの何らか勝手な定規で分断されることも、することもしたくないのです。

彼らはそこにいる。わたしもいる。

 

同じ人間がふたりいない以上、自己/他者という感覚を超えられない以上、人生が短い一度きりである以上、自分では体験出来ないことを虚構の中に観て疑似体験する作業は必要じゃないかと思っていますし、表現芸術の存在意義はそこだとも思っています。

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JGLは出演時もう20代ですが、その体格や顔立ちから10代にしか見えません。そんな彼が演じるニールは、何かを求めて行きずりの男たちの間を彷徨っています。そのいたいけさ、妖しさ、頼りなさ、痛々しさ。

ニールは自分のしていることには十分に自覚的で、そのリスクも理解している。でも止められない。つまり彼のしていることは自傷行為なのです。

狭いカンザスの田舎町で男娼まがいのことをしているのは、もうとっくに皆に知られています。幾つになっても娘気分でお気楽なママ以外には。

男たちからお金は貰うけど、お金の為だけにしているんじゃないから、もらったお金は引き出しに貯めこんだまま。

 

ニールのママはエリザベス・シュー。彼女は『リービング・ラスベガス』というこれまたヒリヒリと痛くせつない映画に出ています。中の人は洗練された正統派美女ですが、何故かこういう田舎のリアリーダーがそのまま大きくなったような役柄をよく演じてる気がします。

先のエントリの、劇中のブレント・コリガン氏の母親像もそうですが、このママも母親というかあくまで女。男>子供で、子供を愛していないわけじゃないのにうまくいっていない。問題を直視せず、息子を持て余している自分を、息子に愛と自由を与えてあげていると勘違いしてる。その無責任と勘違いが、彼女が予想もしないこの根深い悲劇を生んでしまいます。

(野球を覚えれば、ニールはもっと男の子っぽくなってくれるはず。自分が好きになってきた男たちのように)

(このコーチなら、父親役もしてくれそう。ワタシに好意があるみたいだし)

こんな安直なママのお陰で、ニールは正に虐待と言うに値する体験をします。しかも悲劇的なことに、幼いニールには大好きな野球コーチとの楽しく幸せなお遊びとしてその行為が記憶されるのです。

 

楽しくて気持ち良かったはずの「それ」が、ニールにとってはいつの間にか、いや幼い最初の時から、自らを痛めつけることになります。でも止められない。行きずりの男達が自分(の身体)に束の間夢中になることは、もう会えないコーチをニールに思い出せると同時に、誰かに自分を「求められる」、つまり承認を得られる行為になるから。それには常に身体的な痛みが伴ったはずですが、むしろ、痛みは彼の記憶と充足を喚起したのかもしれません。

母親が機能しない分、ニールは友達には恵まれていて、ウェンディとエリックの優しさが辛うじての救いになっていますが、その大事な親友たちに進言されても、ニールは男たちに身体を差し出すことを止められません。実際は単なる食い物にされている自分なのに、相手を翻弄し支配している気になってもいたでしょう。そうでなければ自我が保たれないのでは?

 

ウェンディを頼りNYに流れたニールは、田舎町でしてきたことをそのまま都会で繰り返してしまったため、本当の意味での”痛い目”に合い、故郷に戻ります。

#この辺りの描写が、自分が地方出身者ということもあり本当にしんどくなります。

 

一方で、同じ体験をしていたブライアンの中では、幼かった自分を守るために記憶のすり替えが行われています。記憶を抑圧し、自分はUFOに攫われて宇宙人におかしなことをされたんだと思い込むことだけが彼を生かしています。そこにつけ込むように現れ、親しくなり強引に距離を詰めてくる同じ(宇宙人に攫われた)記憶を持つと言うアヴァリン(日本語字幕を確認していないので違う表記かも?)の存在は、皮肉にもブライアンのセクシャリティを本人に認知させることになります。エリックが彼を、ニールにしていたように気遣い慰め、ふたりは仲良くなります。

 

そしてニールとブライアンの邂逅は、過去を呼び起こし、ふたりにあの時の現実、ふたりが本当に野球コーチにされたことを思い出させます。それは本当に観ているこちらがどうしようもなく、やるせない気持ちになる最低な暴力でした。

それでも、それをふたりで一緒に思い出す作業は、その過去を振り切り葬ることになります。

ずっとふたりがもがき、追い求めていたことは何だったのか。

ニールもブライアンも痛みを求めていたのではないのです。ただひたすらに、幸せを感じたいのです。失われた過去に縋ることを止め、己の本質を知り、真に渇望していたものを自覚出来たことは彼らを成長させ、明るい場所に導くはずです。

 

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若者英語なので癖はありますが、英語字幕無しでも判るというか、あいにく判ってしまう英語でした。辛い・・・。

 

 【注文と納品】

UK PAL2 DVDで本体が10.83GBP、単体注文で送料が3.58GBPでした。

日本のアマゾンにもUK盤が出品されていましたが、たしか4,000円くらいだったので直接注文した次第です。レートやタイミングで在庫放出的にUK盤が国内で安く入手出来ることがありますので比較は重要ですね。