Not Yet ~あの映画の公開はいつですか?~

主に国内未公開&未発売の映画の話など

(間もなく公開)「Call Me By Your Name」桃源郷の物語

間もなく「君の名前で僕を呼んで」の邦題で公開される作品です。DVDが届いたので公開に先行して感想をあげてしまいます。何回か直す予定ですが取り急ぎ。

以前のエントリの通りで原作既読済、それどころか図らずも映画のラストシーンまでをSNS経由で知っていました。我慢できず、出来心でYouTubeもいろいろ観てしまいました(←コレいけない)。

その上既にこの映画には続編が準備されているとのことで、今、日本以外のSNSはその話題で持ちきりです。そんな状況であと1か月半待たされるのはもう本当に無理でした。

 

鑑賞前は感想の一部として原作と細かく比較することを考えていましたが、鑑賞後の今はそれにはあまり意義を感じなくなりました。

先日、ジェームズ・アイボリー翁(89)はこの作品で本年度のアカデミー「脚色賞」を受賞しています。超一流のシェフが最高の素材で最高の料理にしたのです。原作を至上として映画を論うのはなんだか無粋に思えています。

 「call me by your name」の画像検索結果

この映画は、1983年に北イタリアのどこかにあった(かもしれない)桃源郷の物語でした。

美しい映像は最初のタイトルクレジットから、まるでその頃に制作された、少し古い映画を観ているような色調と表現で綴られます。

エリオにとって特別なひと夏、オリバーがいる時間と空間、そのかけがえの無さと眩しさを、観客はその美しい景色と共に一緒に体験します。逃れられない別れの、そのせつなさまでも。

 

ネタバレしますが、さすがにラストシーンそのものは書きません。

***

別荘の前にタクシーが停まる。到着した新しい居候がパパと挨拶をしているのをガールフレンドと一緒に窓から見下ろすエリオ。面倒なだけのはずが、オリバーと対峙したエリオははにかんで明らかに高揚する。

部屋が隣同士で、バスルームは共有だと説明している間にオリバーはベッドに突っ伏して寝てしまう。夕食に呼びに行っても同じ。

翌朝、朝食の席でエリオはオリバーを観察する。胸に光るユダヤの星のネックレス。

パパが例年の居候に吹っ掛けるapricotの語源についての話題を、オリバーは卒なく返すどころか、皆の予想を超える知識の深さであっさりと上書きする。これはエリオを含むこの一家3人にとって過去最高得点での合格であり、オリバーはこの夏休み中有効なあらゆる免罪符を早々に、鮮やかに獲得してしまう。

エリオの両親や家の手伝いの人たちだけでなく、街の人々ともどんどん仲良くなるオリバー。彼の持つ煌きは周囲の老若男女をくまなく魅了し、エリオを驚かせ、楽しませる。

側にいても、姿が見えなくてもエリオはオリバーが気になって仕方がない。

プールサイドの他愛の無い会話。サングラスで表情を隠しても、嬉しくて持ちあがってしまうエリオの口角。

エリオがギターでさらりと弾いたフレーズが誰のどの曲であり、その編曲が目指すテイストやユーモアまでも理解して、遠慮なくダメ出しまでするオリバーを、エリオは鍵盤で様々に迎え撃つ。弾む指先。

オリバーの持ってきた本、水着、彼のベッド。それに触れることは、オリバーの肌に触れること。

***

 

原作のエリオはオリバーが「自分の恋の相手にふさわしいか」「自分の初体験の男にふさわしいか」を彼(と)のいろいろな行動からまず観察や検証をしていました。可愛らしいことに、その時点でもう十分恋が始まっているのですが、本人はそのことに途中まで気づきません。

映画のエリオは原作よりさらにいたいけで繊細な少年に感じられました。

それは彼の揺れる心情がナレーションされることは一切なく、そのすべてがティモシー・シャラメくんという稀代の美少年(本当は既に青年)の表情とふるまいで極めて繊細に表現されていたからです。

映画のエリオは、まさに電撃的に、そして自覚的に恋に落ちてしまいます。

描かれないアメリカでの暮らしとは比較出来ないので、少なくともイタリアでのバカンス中には、となりますが、エリオにとってオリバーは、初めて出逢った、自分のしていることを完全に理解できる知性と美意識を持つ他人だったのでしょう。予想外に現れた知的な刺激と肉体的な魅力に、エリオは抗いません。強く惹かれながらエリオが感じる少しの不安は(彼は自分を好きじゃないかもしれない)という、多分に幼さからくるものだけです。人当たりの良いオリバーが自分に見せる態度が特別なのか、特別であればそれは恩師の息子、家主の息子であるからなのか。それとも自分が期待する理由で特別なのか。 

その不安はオリバー本人にあっさり否定されます。彼は

「良きホストとして振る舞う必要はない」とはっきり言ってくれるのです。属性ではなく、個人として自分に対峙しろ、と。

しかもこれはエリオが、前の晩にオリバーと仲良くなった女の子の話題を振った流れで出てきます。付き合っちゃえばいいじゃん、と言うエリオのお節介を否定してさらに言うのです。

エリオ自身は男であるオリバーに恋する自分を一切否定していませんが、オリバーは女(の方)が好きかもしれない、と直接探りを入れているのです。女の話題に乗ってこなかったことはエリオを安心させたはずです。

 

***

ふたりで出掛けた先にあった記念碑の由来を説明するエリオの博識をオリバーが褒めると、エリオはオリバーだけに、オリバーだから知って欲しいのだと繰り返しながら、自分は何も知らないのだと言う。何を知らないのかも、分かっているはずだと。

会話を中断したオリバーを、エリオは誰も来ない秘密の場所に連れ出す。

草に横たわるふたり。湖の底にあった古い銅像に触れるように、エリオに触れるオリバー。初めてキスをして触れ合うも、それ以上は思い留まるオリバー。

***

 

このシーンの前、エリオはオリバーに、ママが読んでくれた『エプタメロン』の話題を振ります。彼は当然のように概要は知っていて、エリオが話したかった(であろう)「speak or die」というキーワードを先んじて出してきます。

話すか、死ぬか。エリオは話すことを選んだのです。

つまりは「貴方は特別だから、僕が知らない何もかもを全部教えて欲しい」と。これはどうしようもなく切実な愛の告白であり、その無防備さはさながら五体投地のようです。

 

***

家に戻ってのランチで鼻血を出してしまうエリオ。オリバーが心配してくれたことが嬉しかったのに、その後彼は行先を告げずに出かけてしまう。

オリバーと同じ星のネックレスを着けたのに。

夜中に帰って来た彼の物音に、寝たふりをしながらエリオは小さく「裏切者」と呟く。

 

少し距離を置かれただけで寂しさが募り、エリオはオリバーに何度も推敲したメモをそっと送る。気付けば返事が自分の机の上に置かれていて、それから一日中腕時計ばかり見てしまう。約束は真夜中で、今はまだ陽が上ったばかり。

何気なさを装い、ガールフレンドとデートをしたり、不本意ながらも来客の相手をしているうちに夜がやってくる。

ついに抱き合うふたり。オリバーの提案でお互いに名前を交換して甘く囁き合う。

 

翌朝、エリオもオリバーも複雑な表情を見せる。それでも街に行ったオリバーをエリオは追い、正直な気持ちを言葉で伝えあう。

 

家にひとり戻ったエリオは、屋根裏の秘密基地で昨夜を思い出しながらひとり自慰をする。さっき捥いだ桃を使って、果汁を胸に滴らせながら。

そのまま眠ってしまったところにオリバーが現れる。していたことに気付かれ、泣きじゃくるエリオをオリバーは抱きしめる。

 

こうなるまでの時間の長さと、残った時間の短さを嘆きながらふたりは一緒に夜を過ごす。

***

 

オリバーから返事が来ていた時のエリオのリアクションの可愛さたるや。

あと、エリオは自分からオリバーがいるバルコニーに向かって自分の決心を見せるのですが、そこから服を脱ぐまでの表情の変化!

 

そしてこれこそ、ラストシーン以上にすべきでないネタバレかと思いますが書きます。

この映画のレーテイングはUKではR15で、パッケージにはその理由が書いてありますが「Strong Sex」とのこと。実際は全く強力ではありません。というか、エリオとガールフレンドのマルシア、エリオとオリバーのそのシーンがありますが、カメラがパンしたりで全然見えません

どこかの映画評論家がこの映画のアフタートークショーでとある映画と比較して、「ラブシーンが気持ち悪くなかった」とか言い放ったそうですが、どちらの映画も、きっと私が観た作品とは違うものをご覧になったんでしょうねっ(毒)アハハッ!

あと、「ラブシーン」って単語、なんか変では?特にこの映画ではふたりが出逢ってから全部ラブシーンですし、あの映画もふたりのシーンは全部そうでしたよ。

 

🍑桃のシーンですが、これは予想以上に美しく、エリオが自分の恥と弱さをオリバーに晒す象徴的なシーンでした。恥ずかしいのに強く興奮している、という性愛上の心理状況がふたりの間に準備なく出現します。

この時のオリバーは一旦少し残酷にエリオをからかうのですが、それを直ぐに止め、エリオから溢れる様々な気持ちすべてを受け入れ抱きしめます。恥(の喚起)をセックスの前戯に出来るほどエリオは大人ではないこと、駆け引きではなく、すべて純粋なオリバーへの恋心からしていることを思い知ったのでしょう。

 

*** 

(※繰り返しますがラストシーンは全部書きません)

やがてオリバーの帰国が迫り、ふたりは数日間の旅に出る。みんなに見送られてバスに乗ってしまえば、もうふたりきりの世界。

お互いを呼ぶ自分の名前が、ハイキングに行った谷間に、夜の街角にこだまする。

 

短い時が過ぎ、オリバーは列車に乗って帰国の途に。手元に残ったのは、オリバーがくれた青いシャツとふたりだけの秘密の思い出。

 

季節が巡って冬が来る。

雪景色の別荘でエリオが電話を取ると、それはオリバーからだった。

飾らずに「I miss you」を伝え合うふたり。

でもその電話はオリバーから恩師であるエリオの両親への婚約の報告。

エリオは受話器に囁く。自分の名前を。あの夏の、初めての夜のように。何度も、何度も。

オリバーも喘ぐように自分の名前を言う。そして

「全部覚えているよ」と。

 

***

エリオの寝顔を見ながらベッドの端でも、駅のホームでも、オリバーは逡巡を見せます。必死で涙を堪えているエリオには 何も言えないまま、オリバーは列車に乗り、去って行きます。

 

夏から冬まで、エリオはオリバーのいない世界を生きています。その間に考えていたことなのか、両親からの話題なのか、オリバーの電話の用件をエリオは言い当ててしまいます。そしてそれが正解と知ると、自分たちのことを両親は気付いていると、ちょっと意地悪に言ってしまうのです。オリバーもそれを認めます。

 

エリオの両親ですが、パパに関してはオリバーが去った後のエリオを慰めながら、ふたりに友情以上の何かがあることに気付いていると話します。そして「痛みすら消さず引き受けなさい」と。

ママはエリオに「オリバーはあなたのことが、あなたが彼を想う以上に好きなのよ」と焚きつけるようなことを言っていましたし、オリバーを見送って脱力した泣き顔のエリオを迎えに来てくれます。なんと進歩的なご両親。

 

このご両親の在り方は原作に則っていると思いますが、ひとつ、原作から改変されていて正直残念だった点があります。それはエリオのガールフレンドのマルシアです。

原作のエリオは彼女とオリバーの両立を然るべきこととしていましたが、映画では完全なる当て馬、負け役、間の悪い子として描かれます。特に顕著なのは、エリオがオリバーから貰ったシャツを着て浮き立っている朝に彼女が現れてするやり取りです。そのせいでエリオが原作よりもややゲイセクシュアルに寄って見えます。そこが狙いにも感じられましたし、思い出せば脚本はジェームズ・アイボリー翁(89)。彼の他の作品にも感じられる微妙なミソジニーがこの映画にも現れています。オスカー受賞の御大に向けて極東のくそBBAから誠に恐縮ですが、翁が得意な19世紀の女性像のようで、あいにく古いと言わざるを得ない。たとえ1983年が舞台でも、ゲイ礼賛のために女を下げるのは安易でした。それをせずともエリオがオリバーを「男だから」ではなく「オリバーだから」好きで、誰とも比べていない、比べることすらしようとしていないのは明白でした。

 

ただ、エリオの部屋=オリバーが使っている部屋にはロバート・メイプルソープのセルフポートレートが飾ってありました。調べたところ、1983年は彼の初写真集「Robert Mapplethorpe」が発売されたばかりです。美術史家を父に持つエリオが最先端のアートにも造詣が深いことには驚きませんが、男性器を果実のように、花を性器のように写すセクシーでセンセーショナルな作品群とゲイを公言していたメイプルソープの、その本人の写真を自室に、しかも例年来客が使う部屋に飾る、というのは17歳にはなかなか挑発的な行為です。やはりエリオは傾向としてゲイである、ということなのでしょうか。博識なオリバーはあの壁の写真をどう感じたのでしょうか。

 

"Two Men Dancing" by Robert Mapplethorpe, 1984

「robert mapplethorpe」の画像検索結果

30年以上を経ても十分センセーショナルですね↑

 

 

このエントリを書いてから、英語を母国語とする人と「remember」という動詞について会話しました。英語は自動詞としての「思い出す」と他動詞としての「覚えている」をひとつの動詞で共有しているので、都合が良いというかなんだか少し狡い気がするのです。

きっかけがあって思い出したなら(たいていは)時制を変えるのでしょうが、自分の語学レベルのせいもあり、この映画に関わらずこの動詞が出てくると、いろいろ腑に落ちないのです。

果たして継続的に覚えていたのか、そういう前までに思い出し(終え)たということなのか。

日本語も堪能なその人は、私の感じる時制的な違和感についてよく理解してくれた上で、「remember」は「ひとつの『忘れていない状態』であると考えると良い」とアドバイスしてくれました。

それを踏まえて、また前後の文脈も自分なりに咀嚼して、原作でのオリバーの言葉と、映画でのオリバーの言葉を違うものと捉えた自分の感覚をここにはそれぞれ、そのまま記録しておきます。

 

 

桃源郷伝説をヨーロッパの人がどう捉えているのかは知りませんが、何度も象徴的に出てくる桃を見てしまうと、私の中では切り離すことは出来ません。

女性の描き方については前述の通りの感想ですが、この桃源郷を想う部分、ふたりの追憶と再会まで描かれた原作を、J.アイボリー翁は桃源郷での出来事とその対比としての冬、電話での会話だけに絞ってエピソードを詰め込んでいます。その編集手腕の見事さには感服します。ティモシーくん本人の消えゆく少年性の輝きを、エリオ(17)として完璧に記録するのだという翁の気概と監督の美意識が見事に結実していました。

私の好きなシーンに、プールサイドで寝ころんだふたりの

「Are you sleeping? (寝てるの?)」

「...I was.(・・・寝てた)」

という、何気なくて気の利いた会話があるのですが、これ最近気づきましたが、原作とは話者が逆ですね。微睡んでいるのですが、好きな人の声だから起きてしまうとても可愛いシーンです。こういう脚本テクニックは本当に素晴らしいと思います。

 

***

桃源郷とは(Wikipediaより)

陶淵明の作品『桃花源記』が出処になっている。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民や役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる」

***

 

あの「北イタリアのどこか」は、ふたりの桃源郷でした。

オリバーはもちろん、エリオもあの夏そこを出てしまいます。桃源郷は行ってみたいと思っても辿り着けない、戻りたいと思ってももう戻れないのです。

 

 

続編が望まれる映画には、大ヒットしたという経済的な理由の他に、回収していない伏線があったりしますが、この映画がそれを望まれるのはひとえに「エリオには幸せになって欲しい」と観た皆が思うからでしょう。

予定されている続編ですが、あの桃源郷にはもう誰も戻れないはずなので、ふたりの間の現実的な時間の経過を描くものになるのでしょうか。それが原作を離れてしまうものでも、エリオとオリバーにまた会えるのは楽しみです。

 

(W Magazineより)

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フリルは反則です。

 

【注文と納品】

PAL2 DVD 8.32GBPをAmazon UKに発売日以前に最速配送フラグで予約、発売日3/5に現地出荷、日本時間3/7には受領可能でした。(自分都合で翌日受取)

配送取り扱いはDHL、さすがのクオリティ。通関後、国内出荷の準備が整うとSMSで伝票番号が送られて来ました。出荷から正味3日で受け取れた上にwebトラッキングが詳細、さらに国内に入ってからの配送先変更なども電話で柔軟に対応してもらえました。このグレードでの配送の場合、DVD一枚でもポスト投函はNGで受領サイン必須なので、今回は自宅から勤務先に配送先を変更して受領(これが許される勤務先で良かった)。

もちろん送料はお高くて22.48GBP。つまり合計5,000円弱のお買い物ですが、とにかく待ちきれなかったので自分の価値観では全然ありです。

 

 

英語字幕と、聴覚障碍者向けの字幕が選べましたが、あまり美的でないフォントを使っているので、美しい画面を非常に阻害します。(タイトル&エンドロールの雰囲気と同じでちょっとレトロな感じにしたかった・・・のか?)

また、登場人物が皆英語とイタリア語、シーンによってはフランス語とドイツ語も自在に使いこなすので、そこを注釈無く一律的に英語字幕で観てしまうと、ちょっとフラットに感じられて違和感がありました。エリオの方がオリバーよりイタリア語が圧倒的に上手だったり、ママがエリオにフランス語で呼びかけたりしています。マルシアはエリオに度々フランス語で話していましたので、彼女もまた地元の子ではなく、例年ここに訪れる長期リゾート滞在客ということでしょうか。

英語は東海岸っぽい気がしました。会話そのものは比較的シンプルですが、言語が交錯するのと、登場人物が皆インテリなので引用や固有名詞が多く、そこは難易度高でした。

 

(おまけ)

鑑賞前に読んで面白かったGTの記事を貼っておきます。

この記事自体、英国公開後のものなので当然のようにネタバレしていますので訳しませんが、カッコ内が記事のニュアンスです。

「『Call Me By Your Name』に関し貴方の批判が間違っている理由」

1.年齢(17歳の性行為は推奨されるものか)

2.ゲイセックスへの検閲(ソフトに見えるのは検閲のせいか)

3.AIDSの不在(1983年のセーフセックスについて)

4.特権階級では?(リゾート地でのこの一家の生活について)

5.ゲイの役をストレートの俳優が演じてる(ゲイの俳優の仕事ではないか?)

 

 

 

 

(劇場公開済)「Nocturnal Animals」美し過ぎて息が出来ない

 

「A Shingle Man」という自分的 all time top 1 の映画があります。Gucciを復活させた稀代のファッションディレクター、トム・フォードの初映画作品です。

この映画はその監督による2作目として、2016年末に海外で公開されました。原作「ミステリ原稿」を早々に読み、楽しみに待ったのですが日本公開予定が聞こえてこない・・・ちっ。

待ち切れず、2017年3月のメディア発売に予約して買いました。

「nocturnal animals」の画像検索結果 

最初のエントリーに書きましたが、国内公開を待たずに円盤を手配して鑑賞した作品でも、やはり劇場で掛かるなら観に行きます。日本語字幕の表現も知りたいし。

でもこの作品は、結局今のところ劇場では観ていません。

理由は・・・余りにも何もかもが美しすぎて辛かったから。

 

トム・フォードの映画2作品は脚本の最終稿をダウンロードすることが出来ます。

家のTVで英語字幕を出しつつ、脚本を横に置きながら、届いたその夜に鑑賞しました。

 

なんという作品。

原作を読んでいるのにも関わらずサスペンスとして息詰まる。普通にドキドキする。

そして練りに練られたその画力。色、構図、音。寒気がするほどの美しさに緊張して息が詰まる。

観終わった後のとてつもない疲労感は、禍々しい小説を読み終わったヒロインのそれを追体験するかのように心身を支配しました。

 

これ、大画面では耐えられない。動けなくなる。それが自分の結論でした。

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自分的にどうにも垢抜けない印象のあったエイミー・アダムスは、まさに洗練の極み。容姿端麗過ぎるアーミー・ハマーの冷たい美貌。ジェイク・ジレンホールもアーロン・テイラー=ジョンソンマイケル・シャノンも過去最高に不穏。怖くてヤバい魅力に溢れてる。

 

なのに、感想を書こうとすると、どう頑張っても「トム・フォードの美学が詰まった」みたいな当たり前のことしか言えない自分が憎い。

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(これ・・・まさかの「撮影風景」だ・・・完璧なスタイリングの監督)

 

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自分の成熟した美しさを見せるために選んだドレスで装う主人公。

 

あと、劇場に足を運ばなかったのは公式が配役に関連して、これ以上無いくらいガッツリネタバレしたのも赦せなく、お金を落とさないことを決意したこともあります。原作読んでてもあれは絶対に赦せない。

 

【注文と納品】

UK PAL DVDで8.33GBP。他のと一緒に配送、出荷(発売日)から2週間程度。

送料は先のエントリのDVDとドラマのDVD Boxまとめて6.56GBPでした。

 

 

 

 

「King Cobra」アイコンネームの呪縛

(文末に追記あり:ギャレッド・クレイトンくんの近況)

 

この作品はおそらく日本では円盤も出ないし、ネトフリやアマゾン等にも来ることはないかと。

日本では陽の当たらない、というかそんなものは無いかのようにしたいであろうR18のゲイポルノ業界が舞台な上、実話ベース。どうにも訴求し難いんじゃないでしょうか。

以上を前提に、遠慮なくネタバレします。

***

カメラマンのスティーブンには妹にも話せない秘密がある。それは自身がゲイであり、さらには少年趣味のポルノサイトの運営をしていること。

ティーブンは地方の美少年ショーンを自分の家に住まわせ、ブレント・コリガンの名前で売り出すことに。恵まれた容姿ながら過激な内容も厭わないショーンは瞬く間に爆発的な人気を博す。

家出同然のショーンは巧みにスティーブンの嫉妬を煽って愛人になり、彼を懐柔し、翻弄してゆく。

しかしショーンは自身の収入とスティーブンが手にしている額の違いを知り、別のポルノレーベルを運営するジョーとハーローのカップルと接触を始める。また共演者と交際するようになったショーンにはスティーブンの束縛が重荷になる。

契約上、移籍をするとブレント・コリガンを名乗れなくなることを知ったショーンは、自ら身分証を偽造し年齢詐称をし18歳未満でデビューしていたことを明かしてスティーブンとの契約無効を訴える。スティーブンはその嗜好と裏ビジネスを世間に知られることになり、児童虐待で罪にも問われてしまう。

同じころジョーとハーローは自分たちのビジネスの邪魔であるスティーブンを消そうと企み、それを実行する。

自分に殺人の嫌疑がかかることを案じたショーンは、ジョーとハーローがスティーブンについて話す会話を秘密裡に録音して警察に協力し、ふたりを逮捕に導く。

 

ショーンはそれからもブレント・コリガンとしてポルノへの出演を続ける。

 ***

 

何故自分がこのDVDを取り寄せたかと言うと、ジェームズ・フランコが出てるから、がまずひとつ。

(今、彼は騒動の中に居ますが、それに関してここには書きません。既存作品での俳優としての彼とは一旦切り分けたく。

彼の著作については邦訳が出ていないので、そのうちの何冊かについては彼の今後に関わらずそのうちまとめたいです。)

それから、この業界への単純な興味です。表向きは社会学的興味ということで。遥か昔に社会学科を専攻していました。

 

海外では今やゲイポルノはひとつの産業として確立し、興隆している印象があります。

言わずもがな、性産業は最古の産業で、路上からストリーミングまで業態は多々あれど基本は「裏」産業。

故に利用者には背徳感があり、ついては可能な限り匿名で利用(視聴や購買)したい。

そうなると産業側に求められる努力は、サービスの質の向上、ひいては利便性と信頼性の向上とイメージの健全化・・・ってこう書くと、どの産業もその拡大努力は大きく異ならないですね。

要するに、クレジットカード情報を入れて安心な高セキュリティサイトを作って、それなりの書き出し速度で閲覧出来て、というインフラ構築と、コンテンツの拡充がなかなかに上手くいっているように見えるのです。

まぁ海外と言ってもアメリカの都市圏とヨーロッパの一部だけの印象ですし、R18の市場規模はヘテロ向けの方が圧倒的に大きいでしょうし、ゲイポルノのそれがどのくらいなのかもわかりません。

でも界隈で顕著に目立つ国名を敢えて上げると、チェコあたりではなかなかの外貨獲得産業になっているのではと推察します。

 

コンテンツの拡充、と言うと綺麗にまとめすぎですが、要は制作会社毎に個性を打ち出し、世界中のあらゆる「欲」を誰かが確実に引き受けるような多様性が準備されていて、しかも「従事者の年齢」と「従事者の合意」を合法的にクリアし、ある価値観に限って言えば健全な労働に見えたりもします。

脱がなくてもそれなりに有名になれそうな若いモデル(今や男優ではなくこう呼ぶのが適切のようです)たちが、SNSで自分の出演している作品の宣伝と普通の若者としての生活を並行して発信する時代です。その一見屈託の無く見える様子にはちょっと驚きます。

この作品の舞台であるアメリカは元々ヘテロのポルノのリーダーであり、この産業全体の活性化に先行していたかのように見えますが、某政権下の現在はちょっと逆風かもしれません。

また、この作品が取り上げている実際にあった事件は上記の「年齢」と「合意」をひっくり返したのが発端なので、それが時間が経った今も影を落としたままに思えます。もちろん、この点を厳重にすることにはメリットしかないはずなのですが、十数年前のこの出来事、看板モデルの奪い合いが殺人に発展するような業界である、という印象は簡単には拭い去れないものでしょう。

 

作中の主人公は本名/芸名とも事件の渦中にあった実在の俳優と同じです。

とはいえ、現在もその業界で現役である当のご本人には協力や監修を拒否されたとのことで、本人は出ませんし過去映像を使うわけではないのでドキュメンタリーではありません。でも事件は有名だからその内容は歪められないし、劇場公開作品なので、R18相応にエロもグロも適当に回避しています。

※この事件とその渦中にあったモデル、ブレント・コリガン氏については、ちょっと内容が古いですが日本語でwikiがあるのでご興味あれば。

十代の頃のご尊顔です↓今も甘口ハンサムですが、ムキムキして四角くなったのと着衣の写真が出てこないので貼りません。

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勢いでポチったので、届いたパッケージを見てから、クリスチャン・スレーターがスティーブン役で出ているのを知りました。おう・・・歳取ったね、お互い。『トゥルーロマンス』のからは四半世紀(!)、ゲイの役は初めてでしょうか。

さらにモリ―・リングウォルドが妹役で、アリシアシルバーストーンがショーンの母親役で出ています。ふたりともゲスト出演感が強く、80年代のアイドル映画スターを使いたい誰かの存在を感じました。

そして主人公は元ディズニー・アイドルのギャレッド・クレイトン。アイドルがこういうスキャンダラスな役を演じたことはそれなりにニュースだったようですが、ギャレッドはインタビューで、自身の裸については、上半身+あくまでもお尻を1回見せるだけと厳重に契約したと言っていました。さすがアイドル。(そう言われて観直せば、なるほど、そうでした。)

お陰でショーンには華があって「あーこの子売れるわー」感はよく出ているのですが、残念ながら彼の持つしたたかさが”それなり”止まりで、場当たり感が否めず。彼に巻き込まれて自滅していく人々の浅はかさしかり。

#まさか「そういう薄っぺらい業界なんだよねー」と安易に結論付けたいとか?

今でも世界中に大勢いるらしいファンには悪いんですが、ブレント・コリガンという人のしたたかさはこんなもんじゃないと思ってます。逃げ足が速い策士、と。

年齢詐称に関しても、インタビューを読んだら「当時の地元の年上彼氏に言われてー」とか、結果的に死人が出ているのになんだか他人事な感じだし、芸名の取り合いに関しては長らく訴訟になっていて、判決が出る前からじゃんじゃん名前そのままに仕事したり、なかなかグレーなお作法を取る印象。さらには業界を引退すると高らかに宣言しながら少しするとブーメランのように復活してるし、今の彼氏もねー・・・どうにもビジネス彼氏っぽかったり。(追記:何度かの別れたり修復したりのアナウンスの後、馬面/馬並彼とはついに別れたそうです)

そのくせ彼本人を貫く美学や哲学のようなものがほとんど感じられない。だからこそ、過激なプレイで名を馳せたのかも、断ることを知らないだけかも、とすら思えたり。

#うーん、ご本人が場当たりタイプだからこういう映画になってしまったのか?

本名のショーン・ポールロックハートは別だとしても、ブレント・コリガンという名前の下での彼はもう徹頭徹尾bit*hというかsl*tと言うか、映画の中で自分のママに罵られていた通りアレで、誰かを欲情させるだけの主体性に乏しいポルノキング、正に裸の王様であろうと努めているのか、もはやそれすら考えていないのか。

 

ジョーとハーローのエピソードも、もっと描くかもっと端折るかして欲しかった。収監中の実在の犯罪者なので、難しいとは思うのですが。

ジェームズ・フランコキーガン・アレン演じるこのふたりは、公私を支え合う愛し合った「家族」なのだと自称しています。ハーローがビデオに出演するだけでなく売春もして糊口を凌いでいますが急に不能になり、いずれのビジネスも回らなくなり犯罪に走ります。うーん、腐女子だけどハーローが売れっ子とはちょっと思えないんだよなー。どう考えてもジョーの方がお色気があり売れる気がしますが、年齢的には厳しいか。

ジェームズ・フランコは他にも進んでゲイ役を引き受けていて、また作中で脱ぐことにも抵抗が無いと言って憚らない人であり、キーガンとふたりでそれなりに思い切ったシーンをこなしていますが、まぁそうは言ってもR18なら何やってもいいわけじゃない。

 

こうして積み重なったろいろな制約のせいなのか、世の中にはこういうビジネスがある、ということだけは分かるものの、この作品を薄く残念なものにしてしまっています。

彼女なりに息子を愛しているものの、決定的に保護者にはなれないショーンの母親のどうしようもなさだったり、ショーンを含めこの業界しか居場所が無いように見える人たちの描写とか、ところどころには巧いところもありました。

 

もし万象繰り合わせることが出来ていたら、この映画はどこに向かったのでしょう。

この先ブレント・コリガン氏がいよいよついに引退したら、この名前での最期のひと儲けに、再び業界を震撼させる明け透けな自叙伝でも出していただき、それを実写化する体で再度チャレンジするとか。

あるいは、もういっそあの名前を使わないで、あくまで虚構のキャラクター達による何処かで訊いたような事件の体にしておけば・・・と軽く想像するだけでも「ブレント・コリガン」という名前が持つメタ的な呪いと破壊力を感じてしまいます(怖)。

 

そこまで詳しくないのであくまで私感の極みですが、ポルノという業界はたぶん、地下産業として長らくの黎明期があり、インターネット時代の到来があり、ゲイポルノならこのブレント・コリガンがストリーミングビデオの第一世代の旗手であり、SNS時代の到来に合わせて、今は第二、もしくは第三世代になっているように見えます。

求められる情報発信の頻度と鮮度は過去の比ではなく、モデルの子たちは自分に関して巧みに情報戦略をする必要があり、それには主体性と個性、個々の美学なり哲学なりの構築が不可欠のはずです。物を言うモデル、と言いましょうか。もちろん、エージェントがついて戦略的にイメージ構築する例もあるでしょう。配慮に欠ければ舌禍すら起こります。現れては消えてゆくモデル達の活躍サイクルの短さもより顕著です。

そんな中で、あまりにも色々あった彼のこの名前に相変わらず商品価値がある(ように見える)のは、なかなかに興味深いところです。

 

【注文と納品】

Amazon UKからUK PAL DVDで購入。6.66GBPでした。到着までは2週間弱。

 

英語字幕無しでしたが、この作品の視聴に関しては分からない会話は殆どありませんでした。会話の底が決定的に浅いのです。学校で教えてくれない英語はガンガン出てきますが、レーティングがあるからまだそれでもマイルドな印象。

でも、上にも書きましたが、ショーンがポルノモデルであることが実の母親にバレた時、彼女に「hole!」と罵られたの、これはキツい。ここは脚色だと思いたいです。

 

【追記】

本作主演のギャレッド・クレイトンくん、8月にcome outしましたね。ディズニーの冠の下でティーンアイドルだった彼がこういう役に挑戦するのは、役者としてのチャレンジだけではないだろうと思っていたこともあり。全然驚かなかったし、もういちいちそういうリアクションしなくて良い時代になったんじゃないでしょうか。

www.gaytimes.co.uk

 

「Call Me By Your Name」原作本:終わらない初恋の物語

評判の映画、「Call Me By Your Name」は「君の名前で僕を呼んで」というド直訳邦題に決まり、4月末に公開とのこと。その頃原作の邦訳も出るそうですが、そんなには待てない。無理。

ということでUS Amazonから買いました。いらっしゃいませ~。

「call me by your name」の画像検索結果

恥ずかしながら、これまで読んできたペーパーバックは全て邦訳を先行読了済み、もしくは映画版鑑賞済みだったので、この英語力ではある意味冒険&挑戦?

でもこの原作が

・主人公の一人称

・回想形式

・文字大き目=中編

であるということと、既に映画の情報をいろいろ仕入れていたのでプロットも把握してるし、まあ大丈夫でしょう、と。

結果は、ある点では大丈夫でした。だって妄想はお手のもの。前後の文脈と描いた妄想で補完できました。

もちろんエリオはティモシー(ティモテ)・シャラメくんだと脳内映像(三白眼大好き♡)、そしてオリバーアミハマことアーミー・ハマーのつもりで読みました。ただし、もうちょっと若い時、王子様役の頃の。

その点で映画公開時に物議を醸したらしいですが、原作のオリバー(24)に対してアミハマ(31)は確かにちょっと歳を取っている。でもオリバーはみんなに「映画スターみたい」と思われるアメリカンな美青年。丁度いいじゃん!それに身長差というか釣り合いも重要。ティモシー君は細くて撫で肩のしんなり体型だけど、何気に長身で185くらいあるとか。アミハマは2m近いので並んでる映画のスチルを観る限り、より華奢な少年に見えてますますとってもいい感じ。だいたいアミハマの胸毛も後姿がどーんとしてるのも、別に今始まったことじゃないような。だから文句無し、ドはまりの配役だと思ってます。

「Armie Hammer」の画像検索結果

これはGQ Styleからの写真ですが、ふたりともすごい目力と色気。

 

ちなみに原作中、17歳時点のエリオ自身の容姿については書かれていなかったような。大人になったらお髭があるようだったけれど、回想録形式で主人公が自分のことを美少年だとわざわざ書くのはやっぱりアレなのかと。外見に関して特にコンプレックスは無さそうなので、それが彼の容姿レベルのひとつの答えでしょうか。

 

大丈夫じゃない点も結局は単語力でした。物語の概要は分かるのです。しかし、細かい機微に至ると・・・む、難しい・・・。

エリオは大学教授の息子という恵まれた環境の子で、語学も堪能で哲学書から文芸書まで読む大変な読書家。ピアノもギターも弾けます。

そんな彼の回想は、大人になった彼がしているわけで更に難解な言葉や成熟した表現がスラスラと出てきます。(なんでその単語を選ぶかね)(Google先生タスケテー)と思いながら必死で読みました。

でも、エリオのこういうインテリなところは、彼の恋心を理解する上で重要なキーでもありました。恋をした彼は、その気持ちを自分の中で理解するために、ますます複雑な表現で思考を重ねます。それは彼にとって初めての経験であり、未知の作業だから。

彼は「感じたこと」「分かったこと」をその知性で必死に撚り分けながら、彼の中で永遠になるこの初恋に落ちてゆくのです。

 

読後に著者のアンドレ・アシマンさんのTIFFのイベント登壇時のコメントを読んで膝を打ちました。

"Intimacy is strange: It's the ability to be completely ductal to another person, who basically pours into you, and you pour into them. It's the absence of complete shame vis-à-vis each other."

「性愛は不可思議です。他者と完全に繋がることのできる力であり、注ぎ込まれ、また注ぎ込む。互いの間には全く恥が存在しない」

 

まさにこの小説は、美しい風景の中でエリオとオリバーが出会い、アシマンさんの言う「absence of complete shame(完全なる羞恥の不在)」たる「intimacy(親密な関係)」を、ひと夏の短い間にどう構築したのか、それが現在のエリオの中に何をどう残しているのか、という極めて内省的な回想録だと自分の中で腑に落ちました。

 

正直に書くと、一読目には前半1/3は、市販のAVを早送りで観る中学生のように「いいから早よやれ」などど思いながら斜め読みでした。アシマンさんごめんなさい。

でも事が起き、タイトルチューンが出てからは1文字も落とさず穴が開くほど読みました。

そこで気付いたのです。主に前半に散りばめられた、エリオがオリバーの前で「恥」を感じるいくつかのシーンが、ふたりの結びつきをより強くしていることに。さらにこのふたりにはいくつか共通の性癖=フェティシズムがあり、その奇跡的な一致もまたお互いを離れ難くします。性癖に「刺さった」のです。

セックスは、コミュニケーション手段としては極めて独特です(断言)。

当然ですがひとりでは成立せず、原始からある本能的な行為で、その姿は無防備で滑稽でさえあり、全く理知的なものには見えません。裸を晒しあい、性癖を暴き合い、快楽で恥を越えようとする身体的な挑戦でもあります。ふぅ(息切れ)。

そして基本、秘密の行為です。ふたりで(とも限りませんが)秘密の王国を創り、そこに閉じ篭り執り行います。共通の性癖は、その王国のさらなる奥の間に入るための合言葉や鍵のようなものでしょうか。

でもその秘密の王国に、皮膚感覚でその時「感じ」消えてゆくものだけでなく、理知的に「分かる」もの、共感のようなもの、あるいは愛と呼ばれるものかもしれない何かがその生まれれば、それは身体を離し、身体感覚が消えても残ってくれる気がします。

逆説的に、セックスだけ覚えてる相手には、要するに思い出として遺せた他のことが無いという法則。まぁ、それはそれでひとつの思い出ですけれど。

 

以下に各章のエピソードをちょっと挙げますが、自分的にはこのふたりの「恥」や「性癖」への感覚が顕著なところを抜き出すことになりそうです。

 

実はこのタイトルも、これが現れるまではなんかこう・・・

「ちょいと概念的過ぎやしませんかね?」と思っていました。詩的で音も良いけれど、何それ楽しいの?気持ちいいの?みたいな。

「自分の名前で相手を呼び、相手からも相手の名で呼ばれる」ことは、性的な”プレイ”になりうるのか?それで興奮出来るのか?どうにもはっきりイメージ出来なかった。

(でもトレイラーではアミハマがこの言葉をあの声で、ベッドでセクシーに囁いてる)

果たしてそれは杞憂に終わり、名前を交換する行為は十分に性的で官能的な行為として書かれていました。ただし、思うにそれはあくまで、このエリオという知性と好奇心に溢れた少年と、哲学者であるオリバーの組み合わせだから成立した非常に高度で高級な行為、つまり神々の遊びでした。

そしてこの名前の交換の持つ”効果”が示される場所は、ふたりが密かに睦み合うベッドの中だけではありませんでした。

これはふたりが交わした、いくつかあるふたりだけの秘密の暗号のうちの、最も重要で永遠のものになるのです。

 

そして後半最終章。時間を経たふたりの物語を泣きながら読んでから、また最初に戻りました。これでアシマンさんは許してくれるでしょうか。そうして何度も読み過ぎて擦り切れたペーパーバックには付箋だらけ。好きなシーンに貼ってあります。非公式だけど原作Botも拾ってます。ちゃんと全部、本当に隅々まで読みましたよ!アシマンさん!

 

(会社の英文資料もそのくらい熱心に読めよ!と言う上司の声が聞こえるようです)

 

***

ここからさらにネタバレします。

全訳をするつもりはないので、各章で自分がキーになると思ったところだけ、ざっくり抜粋し感想を書きます。我ながら残念ですが、訳としてはおかしなところがあるかと。

※以下はあくまで原作の話題です。映画では何処がどう使われているか未だ知りませんが、スチルを見る限りあのシーン♡やらこのシーン♡やらはありそうですね。

尚、わざわざワタシが割愛した訳ではなく、この作中では性行為そのものの生々しい表現は殆どありませんでした。下品に寄せていやらしく書くことは避けてある、とも言えるかと。その代わり、エリオくんが急にさらっとすごいことを回想するので(そ、そんなことまでしたのか小僧・・・)とBBAは毎回驚きました。

***

[part 1] If later, when?

80年代半ば。夏休みをリヴィエラの別荘で過ごすエリオの前に、大学院生オリバーが現れる。エリオのお父さんは大学教授で、毎年こうして居候を招くのが恒例。

ハンサムで快活で社交的なオリバーは、直ぐにみんなの人気者になる。口癖は「Later!(また後で)」。

オリバーが気になるエリオ。

ジョギング、自転車での散策、プール、テニス。夏にこの別荘で出来るアクテビティを楽しく一緒にこなしてくれる活発なオリバーは、レオパルディの話題もさらりと出来るし、新進気鋭の哲学者として、ヘラクレイトス研究の自著は翻訳本の出版準備中でもある。村の女たちも、もちろん彼を放っておかない。

 エリオは彼とこれまでの退屈な居候達、今まで出会ってきた人との違いを考え、彼の放つ魅力を分析する。そして自分の中に、彼に向けた秘密の欲望が湧き上がっていることを自覚する。

 

オリバーと自分以外の皆が海に出かけていない静かな日曜の昼、エリオはベッドでひとり夢想する。

(もしオリバーが僕の部屋に来てくれたら)

その夢想はふいに現実になり、オリバーが部屋に入ってくる。

ふたりはアレルギーがあって海には行けないというお互いの意外な共通点を知る。

オリバーはプールに誘うけれど、エリオは気が進まない。ひとり妄想の続きをするか、いっそ目の前のオリバーに、妄想をすべて現実にして欲しいと密かに思いながら断る。

オリバーが部屋を出てからエリオは気付く。自分はさっきの夢想ですっかり興奮していて、履いていた水着の前が濡れていたことに。だからオリバーはこれからプールに入ろうと言ったのだと。

 

次の日、テニスのダブルスが終わり、オリバーがエリオの肩に触れ、マッサージするような仕草をする。エリオはそれを身を捩って躱したけれど、その体験を「swoon(恍惚)」だったと日記に書く。

 

オリバーがいることがエリオの日常になる。

朝食後の芝生の上やプールサイドで交わす、ふたりにしか分からない会話のやり取りの繰り返しにエリオは幸福を覚え、ときめく。そして夢想を繰り返す。

でも彼がここにいてくれるのはこの夏の6週間だけ。

 

[part 2] Mone's Berm

オリバーが使っている部屋は、エリオの部屋とはバルコニーで続いた隣にあり、滞在客のいない普段にはエリオが使っている。エリオはその勝手知ったる部屋に忍び込んでは、オリバーの服の匂いを嗅いだり、ベッドに寝転がったりする。夢想や妄想はますます加速する。どうか夜の暗闇の中、自分の部屋に忍び込んで欲しい、そして自分の何もかもを奪って欲しいと思う。

ある日エリオはオリバーの外出に着いて行き、遺跡を見ながら言葉を交わす。

エリオの史実への深い造詣と語学力にオリバーは感嘆して言う。

「君はなんでも知ってるんだね」

「僕は何も知らないんだ、オリバー、何も。本当に何も」

「何も?」

「あなたや皆が知っているようなことは、何も」

「どうしてそれを僕に、こうして全部話してくれるの?」

「知って欲しいから。あなたには。あなた以外に言える人はいないから」

「自分が何を言ってるか、分かってる?」

このやり取りに、エリオはオリバーが当惑を感じていると思いそう言うと、オリバーは少し憤慨した様子を見せる。

エリオはもう口を噤むことにして、オリバーを自分のとっておきの場所、岬にある”モネの土手”に連れて行く。モネがデッサンをしたという、別荘と海が見渡せる、秘密の小さな丘。

眺めを楽しみながら、ふたりはさっきの会話を突き詰めてゆく。オリバーは博識なエリオの大人びて少し屈折した自己認識と他者認識を少しずつ、カウンセリングのように解きほぐし、自己肯定に導いてくれる。

心の距離も、並んでいる距離も近づき、ふたりは口づけを交わす。誰もいない場所で、それ以上に進むことも出来たのに、オリバーは中断する。

 

その後、ランチで隣の席に座った時、エリオはオリバーの足の感触を妄想し、少しだけ足先でその足に触れる。するとオリバーは自分の足を、撫でるようにエリオの足の下に滑り込ませてくる。

妄想がまた現実になり、エリオは鼻血を出してテーブルを離れる。今にも射精してしまいそうに興奮していることをなんとか隠しながら。

何故自分の妄想がオリバーに伝わったのか混乱するエリオは、彼から少し離れなければと思う。

タイミングを同じくして、エリオはマルシアと仲良くなる。他愛の無い会話と若いセックス。いかにもな、思春期の男女の夏の交際。

 

オリバーもまた自分と距離を置くようになったことに、エリオは傷つく。

でもマルシアが自分に対して、わざと急にそっけなくしたりするのを見て、オリバーもこれと同じ駆け引きをしているのではと思う。

 

「君は僕のことを好きなの?」と訊かれたエリオは思わず

「I'm worship you(崇拝してる)」と答える。

 

エリオがオリバーに夢見ることは、ますます具体的な願望になってゆく。(僕は誰かとこれをしなくちゃいけない。他の誰かとそれをするくらいなら、彼が良いんだ)

夢の中で彼が繰り返し言う「You'll kill me, if you stop」という言葉がエリオを覆う。これは彼の言葉なのか、自分の懇願なのか。

 

何度も何度も、ほんの2行の文章を推敲して、勇気を出し、エリオはオリバーがジョギングに出て行った朝の部屋のドアの下にメモを差し込む。

『沈黙に耐えられない。話がしたい』

朝食後、部屋に戻るともうオリバーから返事が来ている。

『Grow up, see you in midnight』

待ちきれないエリオは、ランチの後、マルシアと自分の部屋でセックスする。隣の部屋では多分オリバーが昼寝をしている。わざと聴こえるように音を立ててみようかとも思う。

 

深夜になり、現れないオリバーに、エリオは彼の部屋に向かう。そして翌朝まで過ごす。

オリバーの提案でふたりはお互いの名前を交換して呼び合う。そのことにエリオは陶酔する。自分と彼の肉体の境界が消え、していることもされていることも共有しているような感覚を覚える。

 

朝になり、シャワー代わりにふたりで泳いでからそれぞれの部屋に戻り、エリオはまた少し冷静になる(賢者タイム)。夢想していたことをすべて実現してしまったら、その後はどうしたら良いのか?経験したからこそ、無かったことにする、そしてもう二度としない選択肢も生まれる。

 

朝食の席に着くと、遅れてオリバーが現れる。エリオの水着を履いて。それに気づくのはエリオだけで、自分の水着に彼のそれが触れていることに強い興奮を覚える。彼の手、彼の足。昨日の夜を鮮烈に思い出しながら、無かったことにはもう出来ないのだと思う。

 

食後、郵便局に行ったオリバーをエリオは追う。エリオのそんな態度に、オリバーは嬉しさを隠さない。

エリオはその耳元に囁く。

「Fuck me, Elio

 

 #以降🍑桃案件*注意*#

昼寝の時間。エリオはひとりベッドで桃を眺めながらオリバーが良く着ているあの赤い水着、家事をしてくれる地元の人達と一緒に果実を捥いでいたあの後ろ姿を思い出す。彼の尻。

エリオは悪戯心で桃の種を刳り抜くと、それを使って自慰をする。そして使ったそれを放り出したまま微睡む。

ふいにオリバーが部屋に現れ、裸のエリオと桃を見つける。取り繕うエリオ。オリバーは状況を理解し、桃を手に取るとそれを割って食べ始める。やめて、吐き出して、と懇願するエリオにオリバーはそれを食べ続けながら、エリオのしていることは自分が原因ではないか、これからはふたりの間にある何もかもを隠さず話して欲しいと言う。

エリオは複雑な陶酔を覚えて言う。

「全部食べ終わる前にキスして」。

 

ふたりはお互いを初めて出逢った日から強く意識していたことを改めて告白し合う。

オリバーは仕事の予定が変わり、2週間早くアメリカに帰ることになってしまう。

時間を惜しむように、ふたりは毎日一緒に目覚め、泳ぎ、昼寝をし、会話をし、お互いを探検するように身体を重ねる。

***

先のエントリーの「God's Own Country」もそうでしたが、エリオとオリバーは、そのセクシャリティには迷いや葛藤は無いように見えます。周囲にはヘテロに振舞い女の子とデートしますが、ふたりとも自覚的なバイセクシャルです。

エリオには過去、行きずりの男に迫られたことがあり、それが悪い噂になっていることは気にしているものの、悩みというよりこの経験を自身のセクシャリティと魅力を知るきっかけと捉え処理しているように感じました。

 

エリオはオリバーに対し、ガールフレンドのマルシアとのことを隠すつもりはない、と明確に考えています。何故なら彼曰く「パン屋と肉屋は競合しない」から(すみません、ここ爆笑しました)。

エリオはオリバーに恋する地元の女子に関して、(かつてその子と自分も何かあったと読者に匂わせつつも)付き合っちゃえば良いとか、いっそ知ってる女全員と寝てたら良いのにとか思ってみたりするくせに、巧みに妨害して蹴散らしたりもします。

 

更にふたりはversatile(リバ)でもあります。エリオは「昨夜、初めて上にしてもらえた」とかあっさり言ってました。あんなことやこんなことも試したようです。

本書はエリオの視点なので、オリバーの過去の性的な経験については書かれていないのは、つまりそれについてエリオは全く興味が無かった、ということでしょう。7歳年上の彼の魅力を考えれば、どんな経験もあって当然と予想していたということでしょうか。

 

未だそういう仲に進んでいないある夜、オリバーが夕食になっても無断で帰らず、釣りに出て船が転覆したのではないかと皆が心配する中、エリオはひとり密かに浜辺に打ち上げられたオリバーを発見する妄想をします。片想いならではの残酷な妄想ですが、もしそんなことになったら、最も望む形でないにせよ、オリバーを永遠にエリオの中で『終わらない初恋』に出来ると思ったのでしょうか。

 

1-2章ではエリオが繰り返しする夢想と実際に起こった(と思える)ことの境界が曖昧に書かれています。上に上げませんでしたが真っ暗な部屋にオリバーが入ってくる未遂エピソードは特に夢の中のようでした。

 ***

[part 3] San Clemente Syndrome

オリバーは、イタリアに居られる最後の3日をローマで過ごしたいと言い、それにエリオも同行する。

3日間の夢のような時間。人目を憚ることもなくずっとふたりは一緒。街に出掛け、オリバーの書籍の関係者や街の人、旅行者たちと飲み、知的な議論を交わし、歌い、深夜の街角で口づけを交わす。

***

ここは抜粋のしようもないのでこれだけです。ふたりにとって最高の思い出となる3日間をローマ(と直接描かれませんがサンクレメンテ島)で過ごします。夢見ていた関係が結ばれ現実となり、ふたりに起こったことが綴られますが、そのすべてはまさに夢のように美しく、かつてない細やかさで描写されます。

 

エリオはオリバーがいつも着ているシャツ通称「Billowy(しわくちゃ)」が大好きなのですが、これを思い出として別れの際に貰うことと、それまで毎日着てくれるようにお願いします。下着も交換して履いていて、ふたりだけの時はお互いを自分の名前で呼び合います。

ふたりは高級ホテルの同じ部屋に当然のように泊まりますが、これがエリオのお父さんの計らいだったりするのがすごい。

4章がクライマックスなので、さらにさらにネタバレします。

***

[part 4] Gost Spot

 

ローマから戻ったエリオの日々。

 

エリオとその両親に約束した通り、夏と同じ年末にオリバーが再び別荘にやって来る。エリオに触れようとしないオリバーは、春に結婚をすることを告白する。

 

次の夏が来て、また違う居候がやってくるけれど、エリオには何の関心もない。

知らせを受けた家族と一緒にオリバーへの結婚祝いを贈るエリオ。

同じ夏、オリバーとも仲良くなった、エリオの親友のおしゃまな少女ビミニの訃報をエリオが手紙に書くけれど、オリバーはアジアに居て、さらに返事はイタリアの住所に出してしまう。運命的に、あるいは意図的にふたりの距離が離れて空白が訪れる。

自分の人生はオリバー以前/以後に分断されてしまった、とエリオは思いながら過ごす。

 

最後の手紙から9年経った夏に、アメリカにいるエリオのところに別荘の両親から電話が入る。

「今、誰と一緒かわかる?」というママ。

彼の小さな息子たちの嬌声を背後に、オリバーが電話口に出る。

「エリオ?」

呼びかけるオリバーにエリオは

「エリオ」と呼びかける。オリバー

「エリオ、オリバーだよ!」と応える。

時間が痛みとしてエリオの上を過ぎてゆく。

 

あの夏から15年のある日、エリオは大学での講義を終えたオリバーに声を掛ける。

「誰か分からないかもしれないけど・・・」

少しの間の後、オリバーはエリオに気付き、その名前を呼び抱きしめる。少年だった彼の頬を覆う髭に触れる。

ただ声を掛け、自分を思い出してくれればそれでよかったエリオに反して、家での夕食に誘うオリバー。断るエリオに

「君は僕を赦してはくれないだろうね」とオリバーは言う。

「赦す?赦すも何もないよ。何かがあるとすれば、良いことしか思い出せない」

模範的な受け答えをしながらも、オリバーの家に行くわけにはいかないと思う自分を、エリオは説明できない。同じ頃に同じニューイングランドに居たこともあったけれど、エリオはオリバーに会いに行くこともしなければ、偶然すれ違うこともなかった。エリオの中ではオリバーはいつも離れたイタリアにいるように思えていた。

見せたいものがあると、自分の教務室に誘うオリバー。その途中、彼は同僚にエリオを紹介する。オリバーが説明するエリオの経歴は詳しく正しいもので、自分のことなんかもうすっかり忘れているだろうと予想していたエリオは感動する。

そうして訪れたオリバーの教務室はあの夏のイタリアの思い出の品々で溢れていた。

 

ふたりはエリオのホテルのバーで飲むことにする。オリバーは時を経ても若々しく魅力的なままだった。

「僕は呑もうって言ったんだよ。Fuckじゃないよ」エリオは牽制する。

ふたりは素直に再会を喜び合う。そしてお互いの一番の思い出を尋ね合うと、それはやはりローマでのことだった。

 

「もしできるなら、また同じことをする?」しみじみと尋ねるエリオにオリバー

「また始められるなら二度目も、そしてまた三度目もするさ」と微笑み答える。

そしてこうして時間を経たお互いと向かい合うことは、まるで「長い昏睡から覚める」ようでも「並行世界を思う」ようでもあると語り合う。

エリオはこれを言うためにこの時があると思い、思い切ってオリバーに告げる。

「あなたは、僕がこの世を去る時にさよならを言いたいただひとりの相手だ」

 

オリバーも秘密を明かす。教務室にあった額装した絵葉書。エリオが贈ったそれに彼が書き込み、誰にも見せていない言葉は、あの遺跡の前でした会話、メアリー・シェリーのあの言葉だと。

 

ひとりになったエリオはこの再会を反芻する。

あの場で何もかもを話し合えたけれど、それはずっと分かっていたことを確認する作業だったと。自分たちはお互いという光り輝く星を見つけ出した。そしてそれは唯一無二であると。

 

また時が過ぎる。エリオのお父さんの訃報を受け、オリバーがイタリアの別荘を訪ねてくる。変わらず皆に歓迎されるオリバー

懐かしい風景の中を20年前のあの夏のように一緒に歩く。それぞれに追憶と現実とを行き来しながら、エリオはオリバーが言うのを遠くに聞く。

「君が好きだ。すべてを思い出したよ」

もしそうなら。ただひとつの言葉をエリオは心で乞う。

 

***

「この夏」という、少し前の過去の体裁、主観者のいる時点と文章の時制が限りなく近づいたエピソードで、小説は終わります。

 

『恩師の息子』と『父のお気に入りの学生』という表向きの関係から、ふたりはいつまでも完全につきあいを断つことが出来ません。そしてふたりとも、お互いを忘れたかのように過ごしたことはあっても、忘れることは出来なかったのです。

 

妻を娶り、息子がふたり出来たオリバーは、何回かの連絡や再会の際に、懇願とも言えるほど熱心に自分の家族に会って欲しいとエリオに言います。しかしそれは当然エリオには受け入れ難いことで、毎回やんわりと、あるいは(彼なりに)はっきりと拒絶します。やがてはオリバーもその意を汲んだのか諦めたのか、譲歩案のようなものを出すのですが、これは一体どう捉えるべきでしょうか。この誘いを受けたエリオの心情は切々と綴られ、言葉としても表されるのですが、オリバーはどんな効果を求めて、彼の家庭というお互いの間にある究極の現実をエリオに直視させたかったのでしょうか。

 

オリバーはあの夏にはヘラクレイトスを研究していた哲学者です。明るく眩しく陽性なキャラクターのオリバーが、ギリシャ哲学でも特に暗くて有名なヘラクレイトスに傾倒していたという設定に鍵がある気もします。「万物は流転する」の通り、ふたりの間にあるあらゆる変化すら共有したい、あるいは研究者として、エリオがそれをどう感じ捉えるのかを、自分がエリオになったように分かるまでフィールドワークしたかったのでしょうか。

ヘラクレイトスには「博識は分別を教えない」という言葉もあります。決して無分別を良しとする言葉ではありませんが、ふたりの間のいくつかのセクシャルなエピソードは、分別とされるものからの逸脱を敢えて実践したものかもしれません。

 

この後映画を鑑賞してまた比較したいと思っていますが、この第4章がここまでの3/4以上に自分の心を捉えました。美しい追憶と時間の経過が綴られますが、夢想が現実となり、さらに追憶となり、エリオの思考はどんどん簡潔になってゆきます。

 側にいられないからといって、愛することはやめられない。

 美しい追憶があっても、二度と会わない理由にはならない。

 

大人になったエリオが何を生業として、誰を愛し、どう暮らしているかは語られません。それらはオリバーと対峙する時にはまったく必要ないものなのです。何をしても何処に居てもどれだけの時間が経っても、あの夏に始まったエリオの初恋はまだ終わらないのです。

オリバーにもう一度、彼の名前で自分を呼んでもらうまでは。

 

追記

邦訳読みましたが、特にエリオとオリバーふたりの口調や間が自分の脳内イメージとは決定的に合いませんでした。そうか、つたない語学力でも原語で先に読むとこうなるのかー、と思いそっと閉じた次第。

あと、単行本のあのイラスト表紙。絵柄がどうこうではなく、想定読者を絞ったローカルマーケティングがどうにも受け入れがたいのです。映画もそうですが、2018年型の訴求として、想定する読者の多様性についてはもっと検証されて然るべきではないでしょうか。

 

訳や理解の差異についてもコメントや別のSNS、英語ネイティヴレベル含むリアル知人といろいろ意見交換しましたが、多分すべての正解は原作者アシマンさんしか持っていないことかと。

今後も本文に関して訂正はしないかと思います。ここでの誤訳や勘違いを不快に思ったらすみません。コメントはご遠慮なく。

 

本作について、アシマンさんの実体験であると論じる人もありますが、作家性というものはおそらく自分の生み出した全てのキャラクターに自分の一部、あるいはすべてを投影するものかと思っています。エリオもアシマンさんであり、またオリバーも、エリオのお父さんも彼なのではないでしょうか。同性に恋焦がれ、一線を越えた、越えることが出来たエリオと、それを羨ましいことだと率直に言うお父さん。エリオの一人称小説でありながら、作者が登場人物に乗り替わり、その視点を双方に置いて交錯させているのが見え隠れしたのが非常に興味深かったです。

アンドレ・アシマンさんは家庭を持ち、ストレートの男性として生活をされているようです。

お父さんはエリオに「しない後悔よりする後悔」であるべきだという結論を出しています。

つまりはそういうことなのではないでしょうか。

 

恋をしたのにそれを何処かに着地させられなかった作者の後悔あればこその、エリオの恋のまばゆい煌き、引き裂かれるような別離の痛みと悲しみ、時間を経ての再会と恋の昇華。それを美しく、あったかもしれない未来と自身の追憶と後悔に向きあい筆を振るう事が作者自身の秘めたる恋への決着だったのではないかと思います。

 

 

 

(祝☆拡大公開決定)「God's Own Country」:「ゴッズ・オウン・カントリー」というヨークシャーからの福音

 

【はじめに】

このエントリは2018年のバレンタインにようやく清書が済み公開したものです。

それから10か月が過ぎ、輸入盤でしか観ることが叶わなかったものが、イベントと限定上映でついにスクリーンにかかりました!あまりの嬉しさに追記を重ね、すっかり見辛くなったので、この映画に纏わり国内で起こった事の記録は、時系列的に後ろにまとめ直すことにします。

「他のエントリとこのエントリはどうにも熱量が違う」というコメントを頂戴しましたが、そうです!要するにこの作品について何か書きたい!書かねば!というのがそもそもこのブログを始めたきっかけ、大いなるモチベーションでした。暑苦しくてすみません。

本作の噂を聞きつけ、未見なれど日本語での情報をお探しでここに辿り着いた方があれば、恐縮ながら相当ガ~ッツリネタバレしておりますので、その点ご注意ください。最後の最後の素晴らしいシーンを駄文に落とし込むような無粋な真似はさすがにしていません。というか筆力が追い付かないので。

 

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ワタシはヘテロセクシュアルですが、ほんの少しばかり腐っているのと、その視点や記事が好きなので『GT(GayTimes Magazine)』と『Out Magazine』のTwitterやwebをチェックしています。昨年その両紙でも高評価だったのがこのインディーズ映画、「God’s Own Country」でした。

 

批評家曰く

『ヨークシャー版「ブロークバック・マウンテン」』

『ハッピーエンドの「ブロークバック・マウンテン」』。

をっと・・・それって。なんか既にネタバレ。

でも、あれがああならないなら!だったら!観るしかない。

 

手元に届くまでは上記のような批評記事も斜め読み、公式サイトもSNS見ず、IMDbも見ず。

 

届いたものの仕事が忙しく、土日になってから観ました。少なくとも初見は正座して観たいタイプなんです。

・・・泣いた。BBAの目にも涙。

「ブロークバック」にはゲイである悲しみ=一緒にはいられない悲しみが満ちていましたが、2017年のこの映画のテーマはそこじゃなかったです。

 

恋愛の"恋"は、相手(他者)への興味や思慕から、"愛"は尊敬から芽生えること。

性愛はお互いの恥と弱さを晒し究極的に触れ合うこと。

不器用なJohnnyと移民の季節労働者Gheorgheが、それを西ヨークシャーの牧場を舞台に体現してゆきます。

 

続けて記事を上げる予定ですが話題の「Call Me By Your Name」(原作本)にも同じ感想を持ちました。

 

それにしても、何故ヘテロな関係を描く作品では感情の揺れ動きばかり表現されて、人間としての結びつきとして極めて本質的なはずの、このことが分かりにくいんだろう?感じるこちらの問題ですか?

 

***

 

以降、完全なるネタバレ。Spoiler Alertです。

Gheorgheですが、馴染みのないルーマニアのお名前で、劇中で数回しか呼ばれないので、「ギョーギ」で本当に正しいのかいまいち自信がありません。出会いのシーンでJohnnyが車で迎えに行ったときに

「お前がジョージ?」

「ギョーギ」(本人発音はむしろ「ギョルギ」?)

「どっちでも良いや、まぁ乗れよ」

みたいなやり取りもあるんですが。カタカナではなくそのまま書いておきます。

※未公開映画の画像を貼るのには抵抗があったのですが、公式Twitterが加工画像にまで寛容なので乗っかります。日本語字幕ではGheorgheは「ゲオルゲ」でした。

 

***

畜産農家のひとり息子のJohnnyは、脳出血を患い身体が不自由になったお父さんとおばあちゃんの3人暮らし。彼にはこの家を支える責任が立ち上がっている。

倹しい暮らしの中、Johnnyの唯一の気晴らしは、パブでの痛飲と行きずりのセックス。酒は気絶するまで、日常の忘却のために飲む。吐くまでが飲酒!(#←お酒に関しては他人事とは思えない・・・もうしませんけど#)

彼は自覚的なタチのゲイであり、出会いの少ない田舎だからか、相手を見つけたら即、事に及ぶ。あくまでただの気晴らしであり愛情表現じゃないから、相手とキスなんてしない。快感だけはあるけど、それは自分を楽しくも、幸せにもしない。事が済んだらとっとと別れて、また会うとかはマジ勘弁。

 

繁殖期にひとりで広大な放牧地と牛舎・羊舎の管理は無理。Johnnyがいない間に生まれた子牛が死んでしまう悲しい事故も起きてしまう。

家事こそおばあちゃん任せにしているけど、一家は季節労働者に頼ることに。それがルーマニア人のGheorghe。お髭のハンサム。英語も上手でむしろ誰よりも訛っていない。

 

羊の出産がピークになる数日間、ふたりは離れた放牧地にキャンプしてそれに備えながら壊れた石塀を集中的に修理して過ごすことになる。

 

雇っておきながら、Johnnyは彼に敬意を払えない。極端に距離を置いて接し、「Gypo(ジプシーの蔑称)」とあだ名をして馬鹿にする。

でも魅力的な容姿を持ち、難産の子羊を取り出し、蘇生して哺乳したり、とにかく有能な酪農家であり、黙々と働くミステリアスなGheorgheから、Johnnyは目が離せない。

 

早朝、なんの衒いもなく裸になって身体を拭いているGheorgheに、Johnnyは目のやり場に困りながら、その欲情を隠すつもりなのかGypo呼ばわりと、かなり蔑視的なひどい冗談を投げつけるように言う。

瞬間的に土に押し倒されるJohnny。Gheorgheは軍属経験でもあるのか、格闘の組手のようにあっさりJohnnyを組み敷くと

「俺をそう呼ぶな。お前が何してるか知ってるんだぞ。なんならヤッてやろうか?いいか、分かったな?」とやり込める。

f:id:somacat:20180214223356p:plain#↑ラブシーンに見えますよね?でもこれが上記のシーンなのです。顔近すぎ。この時点でJohnnyはGheorgheにもう無自覚に降参していて、その瞳には恋心を宿してしまっていたのかもしれません#

Johnnyは痺れるような興奮を感じてしばらく動けない。

 

そんなことがあってもGheorgheの方はあくまで淡々と仕事をこなす。

尖った岩で掌を切ったJohnny、その手を強い力で掴むGheorghe。抵抗するJohnnyにGheorgheは

「何かあったら困るだろう」

そう言いながら傷が深くないことを優しく撫でて確認する。不意な距離の近さ、期待していなかった優しさにJohnnyはまた動けなくなる。

 

 

自分なりに誇りと自信を持っている仕事でいまいち敵わない敗北感、昨日すっかりやり込められたことへの怒り。そして自分に湧き上がる抑えきれない「何か」のままに、朧な夜明けの中、JohnnyはGheorgheを襲うように(いや、確実に襲ってたね・・・)暴力的に事に及んでしまう。この時、Gheorgheはそれを予期していたような態度を見せると、結局縋りつくほどに必死なJohnnyの様子に抵抗を諦める。泥だらけで絡み合うふたり。

 

それでも明るくなれば、またふたりだけで黙々と仕事をする。 

graze

Read more: https://www.springfieldspringfield.co.uk/movie_script.php?movie=gods-own-countryまるで何も無かったように。

「ここは綺麗なところだ」

「子供の頃は、まさか自分の農場を離れる時が来るとは思ってなかった」

「美しくて、でも孤独だ。そうだろう?」

呟くGheorgheの言葉に、Johnnyは何も返さない。

 

 

昼のとある出来事。羊に接するGheorgheのプロフェッショナルさにJohnnyは感嘆すると同時に、彼が自分の知らないことを黙って見せて教えてくれることに気付く。(ここで劇中、初めての)笑顔がJohnnyから零れる。

 

その夜。さらに沸き上がる「何か」に言葉も見つけられないまま寝たふりをしているJohnny。その肩を黙って優しく抱き、手を取り、ゆっくり肌に触れ合い、その官能を教えてあげるGheorghe。奪いあい与えあうような口づけを何度も交わしながら、ふたりは初めて愛情表現として抱き合い、セックスで会話をする。

朝が来る頃、ふたりはお互いの故郷の春の話をする。まだ母親が側に居てくれた頃の、ずっと前の春の話を。

 

Gheorgheの存在は、Johnnyが毎日見ていたはずの風景をみるみる輝かせてゆく。遅い春の訪れに合わせるように。

ふたりで見る地平線。雲の切れ間の、天から降り注ぐ朝の陽射し。

「god's own country」の画像検索結果

 

そんな中で再びお父さんが倒れてしまう。その危機も、ふたりの結びつきをより強くする。愛情深く献身的なGheorgheに支えられ、ふたりでならこれを乗り越えられると思うJohnny。ただし、Gheorgheがこうして一緒に居られるのには期限がある。それを引き延ばすにはどうしたら良いのか、この農場をどうすれば良いのか。Johnnyには問題を直視することが出来ない。

その悩みからなのか、Johnnyはパブで酒に酔ってある過ちを犯し、Gheorgheは自ら農場を去ってしまう。

 

再び、彼に出会う前のようにJohnnyひとりだけでする毎日の作業。また色を失う日常。彼が慈しんでくれた家畜たち。壁に掛かったままの彼の作業着。

Gheorgheが寝泊まりしていたバンに(おそらくわざと)忘れられていたセーター。Johnnyは裸の上にそれを着る。その袖口にあったはずのあの優しい手。

みんながいない時にふたりで入った狭い浴槽のお湯は、今はもうとっくに抜けて、ひとりぼっちのJohnnyを温めてはくれない。

 

Johnnyは意を決して彼を追い、新しい働き先まで会いに行く。

長距離バスに揺られ、はるばる自らの意思で赴いたくせに、いざとなると肝心なことを何も言えない不器用なままのJohnny。その言葉を誘導しないよう自分を押さえるGheorghe。

仕事中のGheorgheと立ち話出来る時間はわずか。時間切れ間近、Johnnyは勇気を振り絞り彼自身の言葉で精一杯の気持ちを伝える。それはGheorgheを動かし、ふたりの未来を光り輝く方に導いてゆく。

 

***

 

英語で「感動する」は「move」だけど(他にもあるけど)、JohnnyとGheorgheを動かしたものが伝わって来て、薄汚れたBBAですら何度も心動かされて泣きました。

 

恋愛はひとつの人間関係の形態であり、そこに困難、例えば「違い」、性別(ヘテロを正とした時の異であるゲイ)や人種を持ち込めばドラマにはなるけれど、それだけではなかった。

セクシャリティへの葛藤もまた困難としてドラマを彩るだろうけれど、それはまた別の話であり、この映画はその向こう、斜め上に突き抜けてました。

(修正:ゲイにはある時点で「なる」のではなく、潜在的なものが表出/自認されるのだと思っていますので、表現を変えました↓)

劇中のJohnnyはゲイであることを公にこそしていないけれど、そのことに関して既に葛藤はないように見えました。Gheorgheもまた然り。

とは言え葛藤こそ終わっていたとしても、もちろんそのことが彼(ら)の心を窮屈で孤独にする原因のひとつなのは明らかかと。

 

初見時に気になったのが、Johnnyはそちらの方にはおモテになるタイプなのか?でした。田舎の青年ということもあり、また感情を表に出さないことに慣れた表情に乏しい子だったから、自分の中では最初(地味な主役・・)という印象。なのにヤリ逃げのお相手はいつも金髪のカワイコちゃん。話も早い。

この点を呑み友達のその”業界”の人に訊いたところ「彼はモテる。いいモノ持ってる顔してるから」(※あくまで個人の感想です)とのこと。えーっ・・・?もしやあのお鼻??

(尚、本件↑の答えは劇中にあります)

 

それはさておき、序盤のJohnnyはGheorgheに対し、自らの家庭内の地位を脅かすとばかりにまるで敵のように接しているのに、Gheorgheはいつの間に、Johnnyのどこに惚れた、あるいは絆されたのか?特別な好意こそ見せないまでも、忌み嫌うこともせず、澄んだ瞳で見ていてくれたのは何故なのか?同じ「牧場の息子」であるJohnnyへの共感や同情は最初からあったのかもしれません。

 

Johnnyが最初に仕掛けた乱暴なセックスに、後から力で逆襲することも逃げ出すこともしなかったGheorghe。

キャンプ第一夜は頭を逆にしていかにもよそよそしく寝ていたふたりが、事後から、抱き合うでもなく向かい合うでもないまでも、同じ頭の向きで横になっていたのが特徴的でした。しかもJohnnyは無防備にぐっすり寝てました(お疲れ)。その寝顔に澄んだ眼差しを向けるGheorghe。

Gheorgheがあらゆる点に於いて自分より逞しく経験豊富であることとその包容力。そしてそこには一切の計算や卑劣さが無いこと。その真摯さと自分に似た純粋さは、あんな始め方のセックスでもダイレクトにJohnnyに伝わったことでしょう。

 

興味、欲情、敬意、友情、そして愛情。Gheorgheに強く惹かれてゆく自分自身に心を乱しながらも(さすがに)あれきり乱暴は繰り返さず、何も出来ないでいたJohnny。抱き合いたいという気持ちが何故、何処から湧き出て来るのか。自分が本当にしたいのが(いつものような)セックスなのか、彼自身には分からない。だからGheorgheがそれに応え優しく触れてくれた時、Johnnyは少し怯えています。何もかもがまるで初体験かのように。

 

Gheorgheは(語学力とは関係なく)とても無口で静かな男で、訊かれたこと、ルーマニアの牧場の出身であること、お母さんから英語を習ったことくらいしか話しません。

諦念というか、何もかも単なる短期的な雇用関係だという割り切りがGheorgheの心を占めていたとしたらちょっと悲しくなりますが、あのなんでも淡々と出来るところが、故郷を離れさすらって生きてきたであろう彼の、Johnnyには無い強さでしょう。また農場や家畜の様子でSaxby家の努力を察し、ちゃんと敬意を払うところには、一期一会的というか、彼の信条というか本質的な気高さが感じられました。

そしてとにかく優しい。野性的な色気を持ちながら野卑ではない。さらにチャーミング。食事も手際よく作れ、食卓にさりげなく花を飾れる男です。

様々な場数を踏んできたであろうGheorgheのあの大きな瞳は、意地っ張りのJohnnyの中にあるどうしようもないほどの純粋さを、遅くとも最初のセックスから、もしかすると出逢いの最初から見抜いていたような気がします。家族や家畜をJohnnyなりに愛しているように、彼の中には他者への純粋な愛が隠されていると見抜いた上で、それを隠しているのは、それが彼にとって弱さだからということまでを。

そしてGheorgheは、Johnnyにたびたび自分がここに居られるのには期限があることを話し、自分たちはいずれは離れ離れになることを思い出させます。

そうして期限付きだったからこそ尚のこと、GheorgheはただJohnnyと身体を重ねるだけでなく、彼自身の弱さと向き合わせ、自分の愛を受け入れさせ、自分と愛を交わし、彼自身も愛せるようにJohnnyを変えたのかもしれません。自分が居なくても、何か佳きものがそこに残るように、また野に春が巡り来るように。

 

お父さんもおばあちゃんも優しかったなぁ。当然複雑な想いもあるだろうけど、Gheorgheが来てからのJohnnyの変化、彼の笑顔と瞳の輝き、彼の感じている幸せにふたりは気付いていた。だから「Gheorgheを連れ戻してくる」と出かけてゆくJohnnyを、ふたりは暖かく見送ってくれたのでしょう。

幼い頃お母さんと生き別れたJohnnyはおばあちゃん子です。家事も出来ないしどうにも子供っぽい。「洗濯済みの靴下どこ~?」とか言っちゃってましたからw 。彼女がふたりの未来のためにしてくれたあることは、Johnnyには心底グッときたはずです。

 

#日本で公開されたら、おばあちゃんのあの涙について誰かと考察を交換したいところ。Johnnyのセクシャリティを嘆いたものかと最初は思ったのですが、むしろこんな手近で、しかも期限のある悲恋(に見えるもの)に落ちてしまった孫に同情し、それが上記の行為に繋がったのかも、と今は思っています#

 

 

スコットランドのGheorgheの働く農場までやって来たJohnnyは、そこが酪農畜産場ではなく、ジャガイモの大規模生産農場、むしろ工場というに相応しいところなのを目の当たりにします。あんなに賢く優しく家畜に接することが出来る男がそこで汗して働かなければならない現実。英国ではこの映画をBREXITと絡めて観る向きもあるようですが、その人格や能力や経験を顧みられることのないまま、単純労働を移民が担っている現実を、恐らくこれまであの家を、ヨークシャーを離れたことが無かったであろうJohnnyはどう思ったのでしょうか。

 

観ているうちにどんどん劇中のJohnnyが愛おしくなって、ラストに向かってはひたすら応援していました。

 

 口下手なJohnnyは、Gheorgheとの再会で、

「ここに何しに来た?」と訊かれると

「お前に会いたくて」

までは言ってみたものの、Gheorgheが言っていた通りの羊の世話をしてみたよ、羊は元気だよ、なんて続けます。

#(ここちょっと追記します)

Johnnyが羊の話題を持ち出したのは、Gheorgheに必要なものが、このジャガイモ農場ではなく自分のホーム、Saxby牧場にこそあるということをJohnnyなりに必死にアピールしていたのかも、ですね。あの自分勝手だったJohnnyが、お父さんに訊かれた「(自分の)幸せ」の中に、他者であるGheorgheの幸せ(と想像するもの)を組み込み、一所懸命言葉で伝えようとしているその努力!(いやでもまず先に謝んなさいよw)#

 

直球を投げられずどんどんしおしおしてゆくJohnnyは挙句

「Why did you just leave?」なんて聞いてしまいます。

初見時、字幕無しだったこともありこの台詞を「Why did you leave?」と聞き(ちょ、お前どの口が・・・)と呆れたのですが、これ、justがすごく重要では・・・?

原因は全て自分の愚かさだとJohnny自身で受け入れ、大いに反省している。お酒もやめた(!仕事終わりに冷蔵庫のビールを飲まなかった!)。だからこそ、出て行ってしまう前に何かチャンスが欲しかったことを伝えている?のかな、と。Gheorgheは怒りに任せて自分を殴ることも、言葉で詰ることもしなかった。悪いのはなにもかも自分の方なのに。

もちろん感謝さえちゃんと伝えていない。あの頑固で不器用なお父さんすら、言葉にしてくれたのに。

どうしてただ出て行ってしまったのか。この自問のような質問に、Gheorgheはその美しい瞳で射貫くようにJohnnyを見つめるだけ。それを見て目の前の大切な相手をどれだけ傷つけ失望させたのかを(再)確認し、頷くと俯いてしまうJohnny。

Johnnyの口からは、多分それが一番この場にふさわしいはずなのに、「I love you」が出てこない。それどころかpleaseから言い始めることも出来ないし、ごめんなさいも言えない。でも仕事に戻ろうとするGheorgheをなんとか引き留めると、ついに堰を切るように思っていることを素直に、彼らしい言葉で一所懸命に言うのです。全部  I want you to~(構文!) で、涙を堪えながら必死に。そして I don't want~ という彼らしい言い方ですが

「もうあんなクソみたいなことはしない」と言うと

「I want to be with you. And that's what I need to say」。

やっと、やっと言えたよこの不器用ツンデレめ(涙)。

 

もちろん、あのラストの向こうには多くの苦難、困難があることでしょう。

でもあのふたりなら大丈夫。そう思える、力強い”筆力”の映画でした。

 

携帯の電波も入らない僻地の牧場、下りた小さな街のパブでは余所者のGheorgheへの冷たい視線。そんな時代に取り残されたようなあの場所でも、まさかの同性婚は出来るんだよなー。これだけ物質に溢れた日本では出来ないのに。なんだかそのことにもしみじみしました。

ふたりが制度的にどうするのかはともかく、末永くお幸せにと極東から祈ってます。

 

ちなみに腐女子的感想を敢えて書くと、Johnnyには気持ちの変化に合わせて、”ポジション”の変化かその挑戦があったのではとゲスパー。なんか暗示的な表現もそこここにあったし、恋を知ったJohnny、可愛くなりすぎだった。ツンあればこそのデレではありますが、デレ過ぎです。キャンプ中は地べたや干し草の上でいたしてたからか、家に戻った途端ベッドでしたくて甘えて誘うところと、毎回朝チュンシーンの顔がむくんでめちゃくちゃぐったりしてるJohnnyが特に☺。

 

英語に関してはヨーキー訛りが本当に難しかった・・・。summat=somethingだってGoogle先生(「Google翻訳」アプリの方)には出なかったし。Summat以外にもAyeとかNowtとか。「t」何処いった「t」は?になりました。

あとTa=Thanksは知ってました。若者言葉なのかと思ってましたけど、ヨークシャー言葉なのねー。

(作品の内容に☆つける気は全くないけど、英語の自分的難易度は残そうかしら?)

聴き取りは困難でも登場人物は少ないし、プロットもシンプル、何よりみんな口数少ないのが救いでした。

 

 【中の人】

映画が評判になって、中の人たちがモード雑誌や広告に出たりする流れが大好きです。

Johnnyの中のJosh O’Connorくんは、映画を観たLoeweのクリエイティブディレクターでもあるJ.W.アンダーソンに見初められてキャンペーンにも出たそうです。

「loewe josh o'connor」の画像検索結果

ボヴァリー夫人」の表紙もこの写真もスティーヴン・マイゼル氏。おお、Johnnyがこんなに垢抜けて♡

 

こちらは、服装は普通ですが雰囲気があって素敵。こういうロマンティックな物語の中の人には、いつまでも再会の度にイチャイチャして欲しいです。

関連画像

それにしてもホントみんなお芝居巧い。主演ふたりが自分的に無名ということもありますが、キャラクターそのものに見える。西ヨークシャーに行けば会えそうです。

(訂正に次ぐ訂正)

Joshは2017年から英国ITVの大河ドラマ「The Durrells」に、主人公の亡夫と長男の二役で 長男の作家ロレンス・ダレル役で出演していて、今年シーズン3もあるそうです。全然無名じゃない!ごめんなさい。あと、このドラマの紹介去年渡英時に観てました(反省)。

(追記)

そしてワタシは円盤を取り寄せ「The Durrells」S1-3全部観ましたが、Joshはとってもチャーミングな役でした。これから放送のS4で終了が決まっています。末っ子三男ジェラルド・ダレルの”コルフ島三部作”をベースにしていますが、ドラマの主役はお母さん。コルフ島の美しい風景と人々、1930年代の文化、家族の絆。とっても見ごたえあり、笑顔になれるドラマです。記事にしようかな。

 

 

2018年のBAFTA、残念でしたがノミネートされるべき映画を一応ちゃんと取り上げてくれてくれたのが嬉しかったし、こういう写真もっと下さい。(2/19 Joshのインスタから追加)

f:id:somacat:20180219192134p:plain

 完全にcouples goal, husbandsです。ご結婚おめでとうございます🎊

f:id:somacat:20180306154353p:plain

 

Do not call me that.
I know what you're doing.
I will fuck with you.
Do we understand each other?
Good.
Now we can get on with the work.
Yes?
Yeah.

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【注文と納品】

1月中旬に予約、UKの発売日1/27に現地発送、2/7に受領。UK PAL2 DVDで8.32GBP。配送種別は一番安いStandard。送料は他の注文品と合算なので後述予定。

特典映像は削除シーンと追加シーン。

特典映像を観ると、この映画にはどんどん台詞や説明的な表現をそぎ落として演者の無言の表現に比重を置いた努力があったことが伺えます。

 

====国内後日談など====

 

【ついにスクリーンに!】

2018年7月13日と15日にイベントで上映されました!

東京国際レズビアン&ゲイ映画祭はいつの間にかレインボーリール東京(RRT)に名前が変わり、今年のオープニングにこの作品が選ばれました。

邦題は『ゴッズ・オウン・カントリー』!

・・・まんまでしたね。でもヘンテコ邦題にされるよりは全然良かったように思えます。

その初日に青山スパイラルホールで観ることが出来ました。

映画館ではないので椅子が固かったり角度がアレだったりしたのですが、大スクリーンで350人と観るこの作品の壮観なこと!

特に音響は割れる限界まで頑張ってくれていたようで、最初のシーンの轟々とした風の音に驚いたものです。この映画はロマンティックなシーンでもBGMが付かない作品で、いわば風の音がBGMですが、特に前半の荒涼としたJohnnyの心象に相応しい寒々とした野を駆ける風の容赦無い音は、家庭のAVでは再生出来ないものかと。

室内のシーンは照明が粗末なランプだけだったり画面がとても暗いのですが、スクリーンだともう少し明瞭でした。ひとりGheorgheの去ったバンで荒れるJohnnyの表情の複雑さ、その変化!

 

【再び、今度は劇場のスクリーンに!】

RRTのアカウントからまさかの朗報、それは「のむコレ」でまたこの映画が上映される!というものでした。

新宿と心斎橋のシネマートで4回+1回の計5回。ええええっそれだけ・・・?

最初の告知から随分立って、先ず日程、それから上映開始時間スケジュールが出るまで、その間とてつもなく待たされた感がありました。ジリジリジリ・・・しかし!そんな中こんな事実を知りました。

『どうやらRRTのプロデューサーの人が個人的に買い付けて、なんとか5回だけ上映出来る運びになったらしい』

その経緯は以下の通り☟

www.cinemart.co.jp

 

これが洋画買い付けの実情・・・(うなだれ)。

ええーい、じゃあ各回満席になれば次のステップに行けるんじゃないの?!やったるわぃ!!

ということで、ワタクシも微力ながら出来ることをと思い、万障繰り合わせて東京での4回全て観て参りました。

もちろん、葛藤もありました。円盤で観てるんだから未見の方に席を譲るべきなのでは、と。

でも、もしもう劇場で観られないかもしれないなら、1回でも多く見たい!

己の欲求>遠慮=配慮

これが結論でした。ごめんなさい。

実際の各上映2日前の24時からのチケット争奪戦については、熾烈ではあり席を選ぶ余裕こそありませんでしたが、システムの脆弱さもあってか「観たければ買える」スピードでした=売り切れまで一定時間ありました。なので、地方から購入して参戦の方もありました。そのことにホッとしつつも満席を熱望するアンビバレンツが毎回自分の中にありましたが。

とは言え。この映画に関しては「チケットがもし残っていたら観たいかも~」という悠長な「たられば」では観られないほどの前評判だったのは実際です。立ち見の方もたくさんいらっしゃいましたね。

12/2,5,17,19と回を重ねるごと、客席の様相はRRTを思い出させるそれから普通の映画館のそれに・・・というと分かりにくいでしょうか。”イベント参加”ではなく、普通に”評判の映画を観に来た”体の、幅広い客層の方がいらしていたことが、なんだかとても感慨深かった。

村井さん、関係者のみなさん本当にありがとうございます。

 

 【日本語字幕の話】

 

英語字幕で先に何度も観てしまうと、この英語力でも気になる日本語字幕ですが、口数の少ない登場人物のポイントを押さえ、これまた文字数の少ない字幕に落とし込んでありました。その分、繰り返し観てしまった者としては少々ぶっきらぼうが過ぎるかな、とも。

※以降は日本語字幕に関することですので、台詞を書いておりネタバレしています。当然ですが自分の解釈が正義ではないので、ご意見いただければ嬉しいです。英語字幕は主にUK版から拾ってきています。

※※翻訳担当の方は、この作品にとても強い想い入れを持って、文字数制約のある中で、プロとして字幕を作成いただいていることは十分承知しております。批判的な検証をしたいのではなく、翻訳の難しさ、ふたつの言語の隙間に落ちてしまいそうな小さなニュアンスについて、あくまで個人的に感じた記録として下記に挙げます。

 

①Gipsyも十分差別的ですが、序盤でJohnnyがGheorgheにするGypo呼ばわりも字幕が「ジプシー」でした。よりキツいので、強いて言えば、「ジプシー野郎」?

からの、体を拭いているGheorgheに言ったのは「ケツにギア入れて急げよGypo」なので、そりゃ怒られても仕方ないよJohnny。

 

②無理矢理な最初の一戦(あるいは複数?)明けの朝、Gheorgheの(お前なんなんだよ、まったく)な視線にJohnnyがポットヌードルにがっつきながら言う「I'm starving, me」がシンプルに「腹減ってんだよ」でしたが、ここは前夜の言い訳とのWミーニングで「飢えてんの、俺は」とうそぶいてるのでは?

まぁ、言い訳にはもちろんなってないし、Johnnyの(この時点での)セックス感がよく現れているというか、時制が現在形だったり、まだGheorgheとの力関係をギリ対等くらいに勝手に思っていたであろう厚かましい感じが見て取れます。

 

③石垣を直すふたり。Gheorgheの言葉は「うちの農場が恋しいよ」という字幕でしたが実際は

「When I was a kid, I thought I'd never leave my farm」

 と言っています。

「子供の頃にはうちの農場を離れるなんて思いもよらなかった」。

つまり、大人になってから農場を離れなければならなくなった、と。これは後のバーでのシーンでGheorgheがする過去の話の前振りなのでは?

 

④②の翌日の夜、焚火の前で塩(砂糖説もあり)を(チョーダイ)したり、視線を交わしていい雰囲気になったのに、当惑したJohnnyは食べかけのポットヌードルを持ったまま先に寝床に向かいますが、その時小さな声で言った「(good) night」の字幕は「寝る」でした。いや、そこはもう既に可愛くなっちゃって「おやすみ」って言ってるんだぁぁぁ!と自己解釈。

 

⑤バーでJohnnyに、英国にはひとりで来たのか?と訊かれたGheorgheは「Yeah...There was someone once, but...」と返します。someone、と性別素性をぼかした言い方ですが字幕では三歩進んで「恋人がいたけど...」でした。ううむ、直訳ではなくJohnnyの理解のままの字幕ですね(そしてここから一気に酔いが進みあんなことに)。

 

スコットランドのジャガイモ農園での会話。上記記事の通り、GheorgheにJohnnyは他愛ない風の羊の話題からなんとか始めて、「Why did you just leave?」と聞いていますが、まぁ、字幕だと「なんで出てった?」でした。ぬーん・・・。こういう『抜いても意味が通るところにあえてある単語』を気にし過ぎなのかしら。

 

⑦⑥の後の沈黙に続いての会話で、Gheorgheの台詞は「来るべきじゃなかった」とJohnnyを突き放した字幕でしたが、「You shouldn't have come」の後には「I’m not the answer」と続けてくれていて、やっぱりGheorgheはこの段になっても優しくて、ほんの僅かではありますがこの膠着(塩対応)打破へのヒントのようで、Johnnyに対して決定的に残酷には振舞えないんだと思えます。

 

「I don't wont be a fuck-up anymore」を「変わりたいんだ」としたのはプロならでは、自分には思いもつかない妙訳です。

でも、過去の自分と自分のしてきたことをJohnny自身が「fuck-up」だったと言えたことは、『ここから変わりたい』願望ではなく、もう既に変化の顕れなのでは?

その上で泣き出しそうな自分に腕を伸ばし抱き寄せようとしたGheorgheに

「No, Leave me, I'm fine」と言って断ってまで自分の言葉を最後まで言わせてもらうJohnnyのその成長にこっちが先に泣きましたが。

 

GheorgheがJohnnyを「君」って呼んでいたり(かわいい)、ラストのJohnnyの想いの籠った言葉「I want to be together」を次に来る最後のもうひと言が効くように、重ならないように「離れたくない」と訳していたのはプロのセンスだなーと感心しました(膝打)。

 ãgod's own countryãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

これは映画撮影時のスチル写真ではなく「i-D」の記事の為のフォトシュートだそうです。優しい陽だまりとふたりの表情が物語の続きみたいで素敵です。

 

RRT、限定上映各回を満席にしたこの作品、これからどうなるのでしょうか。個人的に監督以外が画面を編集する行為なので「修正」は大嫌いなのですが、しないとレーティングにかかるだろうことはさすがに承知しています。承知したけど納得は出来ないので、無修正に戻して本国同様のR15で劇場に掛けて欲しいなぁ。円盤は当然として。

・・・という記事を書いた翌日のクリスマスに、なんとついに全国公開が決まりました!!予言か!?

 

 

 

 

 

 

 

日本未公開の映画を観る行為

最初の記事なのに、お固いタイトルでしょうか。

昨今、特に思うところあり、でもどういう文体で書いていくかも決めかねている状態です。まぁ、ですます調でいきましょうか。

 

まずは自己紹介。

映画と音楽と猫を愛する、昭和生まれのクソBBAです。好きなジャンルは後述します。

映画は月2-3本は劇場で観ています。ひとりで観ることが多いです。

 

いろいろご縁があり、通算で15年以上外資で仕事しています。現職は日本人の役員2人の秘書と全体のアシスタント、つまりは雑務をしています。

弊社はアメリカに本社がありますが、やり取り先は主に日本法人が所属するAPAC=アジア環太平洋チームになり、日本企業でいうところの総務に関しては本社かオランダ、経理に関しては外注先の香港・大連・上海・インドとのやり取りが必要です。英語必須です。メールで大抵は済みますが、たまに電話会議、対面での会議、来日者対応、出張手配など会話も若干あり。

しかーしながら英語力が伸びないのです。

何より語彙が無い。テキトー(決して「適当」ではない)な喋り、テンプレのメールでなんとかやってます。Google先生英辞郎先生、いつも大変お世話になっております。

学習意欲はあるものの、学習につきものの「採点」には毎度心が砕けてしまうのです。一時期、英会話の無料体験荒らしみたいなこともしてました。ビジネス英語中級。それ以上にも以下にもなれない。そしてTOEICよ、お前に俺の仕事の何が分かると言うのだ。 

そこで、もう少し趣味に寄せて英語に浸かろうと思い、SNSでは主に大好きなイギリスの音楽や映画の情報を出来るだけオリジナル(「公式」ですね)から読むこと、UK PAL2が再生出来るDVDデッキを買ったので、amazon.co.ukで買い物して、英語字幕やダウンロードした脚本を参照しながら映画やドラマを観ることをしています。

思い出せば遥か昔、高校生の頃は洋楽を歌えるように歌詞カード読む、とかしていたので学習と構えずこういう方が向いてるような気がします。洋楽のお陰か発音はそこそこ良いスコアなのが、せめてもの救いかも。

それでもどうにも環境的に、反射的に米語を喋ってしまう自分がいます。英語は英吉利の言葉だYO!

 

さておき、そうして映画の情報収集をしているといろいろ気になることがあるわけで。

SNSでは既にに話題のあの映画、日本公開は?→IMDsの公開予定日にJapanが無い・・・

・を、公開決まったって!?→( ゚Д゚)ハァ?なんで半年遅れ?

SNSの公式アカウント出来た!→発信が遅い・ダサい・つまんない

・・・これはなんなんでしょう。

 

日本で海外作品が公開されるには配給会社(以降「配給」)が噛んできますが、たとえばこの配給は外資なのに、何故展開にこんなに時差が?これ本当に疑問。

弊社はIT業種なのですが、ローカライゼーションにこんなに時間を掛けるなんてありえないんだよなー。

勿論、業界特性もあるでしょう。でもその特性とやら・・・クソじゃね?

 

サラリー(ウー)マン歴長いので、会社員が思いついたことをなんでも実行出来るとは思っていませんが、これ、当たり前なんですか?

断罪するけど、インターネットというものが小さな掌の端末で操れるこの時代に、世界同時性/同期性をマネジメント出来ない時点でもうアウト。

なにより、2バイト言語のお友達、中国と韓国はそんなに公開時期遅れてない。

これってもう日本に、市場としての期待が本社に無い。つまり予算少ない、抜本的な改革計画(「ストラテジー」ってこういう時こそ使うべき?)実行力無い。無いないづくしなのはもう明白。

だったら尚更、本社本丸が大金を使って宣伝している時に公開すべきなのに。

 

ということで、膠着したように見えるローカルの業界には期待せずに、一旦離れることにしました。

面白そうなら自分で調べて、自分で取り寄せることを繰り返しています。

当然何もかも、あくまで『※個人の感想です』が、この行為の備忘録に、このブログには日本未公開の映画やドラマ、本についてネタバレ込みで感じたことを上げようかと思ってます。

なんとかして観ることをお勧めしたい、という気持ちで書くこともあるかと。

ただ、ワタシは映画は水物と思っていて、観る人のその時の気分や環境が全てだから、よくある

「お勧め、なんかある?」という質問は一種の罠に感じています。

(この人は単なる暇つぶしをしたい?)

(簡易カウンセリング的に、薬を出すように、気分に合わせて効果のある作品を選ぶことを要求されている?)

この質問の「用途」が分からない限り、いつも返事はうやむやにしています。

「一番好きな映画」という質問も然り。

(映画ファンとして試されているのか俺・・・?)と思います。

さっと答えたいall time top oneな一本があるけれど、相手が知らない映画を上げて通ぶるのは嫌。マニア同士のマウント合戦みたいなのも大嫌い。

なので、「観た方が良い」という書き方には出来るだけしないつもりです。

すべて『ご興味があれば』でしょうか。星☆もつけません。

鑑賞してどう感じたか、何を知ったかを記録します。

 

取り寄せの費用については、似たようなことをしてみたい誰の参考になればと思っていますので、出来るだけ記録する所存です。

 

一応の自分の主義としては、作品への敬意や仁義として、もし日本で公開されたら大抵は劇場に観に行っています。映画館で観るって特別な行為だし、字幕を確認したいし。

例外もあるのですが、それもまた追って。